はじめに「三浦文学の魅力」
三浦綾子は北海道旭川出身の「昭和文学」を代表する女流作家だ。
自身はキリスト教徒でもあることから、彼女の作品には「キリスト教」の影響が濃いものも多い。
そんな彼女の文学の最大の魅力は、読者に大きな「問い」と「感動」を与えてくれる点だといっていい。
三浦自身、人生の中で大きな悲しみと困難に直面し、「生きる意味」を全身全霊で問い続けた人だった。
そうした経験が、彼女の創作の原動力であり、彼女の文学の原点だといっていい。
さて、今回紹介したいのは、三浦文学の中でも多くのファンを獲得した感動の長編作、『泥流地帯』である。
こちらも、三浦文学らしく読者に大きな「問い」と「感動」を与えてくれる作品となっている。
以下では、そんな『泥流地帯』に描かれた主題についてじっくりと解説・考察をしていこうと思う。
なお、大きなネタバレを含んでいるので未読の方は注意してほしい。
扱うテーマは以下の通り。
- 生きることの悲しみ
- 諦念と自己犠牲
- 人生の不条理
- 悲しみに意味はあるのか
記事の最後には、三浦綾子のオススメ作や、効果的に読書ができるサービスについても紹介しているので、興味がある方は参考にしていただきたい。
では、お時間のある方は、ぜひ最後までお付き合いください。
解説①生きていくことの悲しみ
三浦綾子と同じく、クリスチャン作家の遠藤周作の言葉にこんなものがある。
人間は人生のある時期、皆、同じような悲しみや苦しみを味わう
『幼なじみたち』より
この言葉は、人生の真理を鋭く突いた言葉だと感じている。
生きていくことには、大なり小なり、悲しみや困難というものが必ずつきまとう。
本書『泥流地帯』においても、そうした人間が根本的に抱える「悲しみ」や「困難」というものが、全編を通して描かれている。
拓一や耕作たちが直面している困難、それはもう挙げ出せばキリがない。
- 父親の死
- 母との離別
- 貧しい生活
- 周囲からの差別
拓一たちが幼い頃に父親は仕事中の事故で死んでいるし、その数年後には、母親は髪結いの修行に札幌に移住する。
両親を失った幼い子供たちを支えるのは、年老いた祖父母たちで、その孫の拓一、耕作、富、良子兄妹も厳しい農作業にかり出される。
働いても働いても楽にならない暮らし。
そうした中で彼らに向けられるのは、周囲の人間たちによる心ない差別である。
「百姓は卑しい」
「百姓は惨めだ」
「百姓は馬鹿だ」
こうした言葉の数々は、拓一たちの心に大きな傷を残していく。
たとえば、深城に母親を馬鹿にされて、耕作が石を投げつけるシーンがあるが、このとき怒り心頭で石村家にどなりこんできた深城に対する、祖父市三郎の言葉が印象的だ。
大事な母親の悪口を言われてな、わしらの孫らの心に受けた傷は、生涯なおらんかも知れんでな。顔の傷と、心の傷と、どっちが大事か。あんたは知らんのか」
文庫本P41より
つまり、ここで市三郎は、
「身体が負う傷よりも、心が負う傷のほうが、よっぽど深刻である」
といったことを述べているワケだが、こうした考えは、三浦作品の多くに見られる価値観である。
三浦は、自身のエッセイの中でも、
「泥棒で直接人が死ぬことはないが、悪口で直接人が死ぬことがある」
といった趣旨のことを述べている。
心ない言葉は、その人の心を殺すだけでなく、文字通り「命」を奪うこともある。
そこらへんの軽犯罪よりも、人間の悪意のほうがよっぽど重罪だ、というワケである。
そういう意味でも、拓一たちに浴びせられる容赦ない「言葉の刃」は、幼い彼らの心に大きな悲しみを植え付けているといっていい。
――人生のある時期に直面する悲しみや困難。
拓一たちは、10代という若さで、そうしたものに直面しているのだ。
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解説②諦念と自己犠牲
生きることの悲しみや困難に直面している拓一たち。
その大きな原因には、やはり彼らの生活における「貧しさ」がある。
そうした貧しさのために、拓一たちは沢山のことを諦めてきた。
たとえば、拓一の姉の富は貧しさのために自身の結婚を諦めようとしたし、耕作は主席で合格した中学への入学を貧しさのために諦めてしまったし、放蕩親父のために身売りされてしまった福子は、父の借金のために売春生活から逃れることを諦めてしまった。
生活における「貧しさ」が、彼らから沢山の希望を奪っていることは間違いない。
だけど一方で、ここに彼らの「意志」や「思い」を見つけることもできる。
それは「自己犠牲の精神」だといっていい。
自己犠牲という言葉が過激だとすれば、「大切な人のために尽くそうとする気持ち」と言い換えてもいい。
富が結婚を諦めようとしたのは、耕作の中学校進学を叶えてやろうと思ったからだった。
耕作が中学校進学を諦めたのは、富のそんな思いを知ってしまったからだった。
福子が過酷な売春生活から逃げようとしなかったのも、たとえ放蕩者であっても実の父親のことを思うからであり、貧しい暮らしを強いられている家族を守ろうとしたからだった。
本書『泥流地帯』に、まるで通奏低音のように流れるテーマに、この「自己犠牲」の精神がある。
作中で、福子が耕作に「白い石」をあげるシーンがある。
「これ上げる」
と、白い小石を差し出したのだ。
「何さ、これ?」
問い返す耕作に、福子は真剣な顔で言った。
「耕ちゃん、これお守りだよ。この石を持っていると、きっといいことがあるんだって。いつかは必ずいいことがあるんだって」
文庫本P76より
後に福子が身売りされてしまったとき、耕作はこの石を福子に返そうとする。
これもまた、「自分よりも福子に幸せになってほしい」という耕作の思いが表れたシーンであるが、こんな風に「白い石」というのは、まさに登場人物たちの「自己犠牲」の象徴として描かれている。
そして、作中において「自己犠牲」を最も体現している人物は拓一だといっていい。
凄まじいスピードで迫り来る泥流に飛び込み、文字通り「命」を書けて家族を守ろうとした圧巻のラストはいうまでもないが、拓一の「自己犠牲」として、僕が特に印象的だったのは、愛馬の「青」がトウモロコシを食べて疝痛(腸内に溜まったガスで起きる腹痛)の果てに死んでしまうシーンだ。
青が小屋の外に出て、トウモロコシを食べてしまった原因は、耕作が錠をかけ忘れたことだった。
そのことに気づく耕作は蒼白となる。
それに気がついた拓一は、耕作を守るように言う。
耕作は頭から血が引くのを覚えた。その時拓一がぼそりと言った。
「おれだ。おれが忘れたんだ」
思わず耕作は拓一を見た。拓一はおだやかな顔で、じっと馬を見つめている。
文庫版P317より
この場面は、ここより少し前に描かれている「聖書」に関する記述と明らかなつながりを見せている。
「正しい者ではなく、悪い者が罰を受ければ良い」
こう口にする拓一に対して、祖父の市三郎は次のような言葉で返す。
「悪い奴が死刑になるんなら、当たり前のこった。それじゃ何の価もないこった。だども、何の罪もない者が死んだら、こりゃあ誰だって胸が打たれるべ」
文庫版P277より
この言葉を、飲み込みの早い耕作は次のように解釈をする。
悪くない者が、自分が悪いといって詫びる。それがキリストの十字架ということなんだなと、のみこみのいい耕作にはすぐにわかった。
文庫版P278より
本作『泥流地帯』は、三浦作品の中では「キリスト教」の色が薄い作品といわれている。
とはいえ、この罪を犯した者を「自己犠牲」でもって救済しようとする拓一の姿には、十字架を背負って磔にされたキリストの姿が投影されていると言って良いだろう。
もちろん、本作をキリスト教の文脈で読む必要は全くない。
ただ、三浦綾子の宗教観や信仰を踏まえて読むことで、本作の本質もまた見えてくると僕は考えている。
なお、『塩狩峠』をはじめ、「自己犠牲」の精神を多くの作品に落とし込んできた作者の三浦綾子だが、彼女はこの拓一について「理想的な人物」であると語っている。
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解説③石村家の人生観
ここまで、拓一たちの「自己犠牲の精神」(大切な人のために尽くしたいという思い)について解説をしてきた。
こうした拓一たちの精神を支えているものは、ほかでもなく市三郎やキワの人間観や人生観であるといえる。
そして、彼らの思想や信念こそ、本書『泥流地帯』の読者に大きなメッセージを与える源泉となっているといっていい。
さて、そんな市三郎の人間観や人生観がよく表れている箇所を以下に引用してみよう。
「人間の偉さはな、物をどれだけ持っているかということでは決まらん。金をどれだけ持っているかということでも決まらん」
文庫版P47より
「金の多い少ないは人間の偉さには関係はねぇ。金持にも貧乏人にも、馬鹿もいれば立派なのもいる。問題は、目に見えるものが問題じゃねえ。目に見えないものが大切じゃ」
文庫版P48より
さて、この市三郎の言葉は次のように言い換えることができる。
「金よりも心が大切だ」
これをもっと本質的に言い換えると次のようになる。
「物質的豊かさよりも精神的豊かさが大切だ」
この市三郎の教えを守っているからこそ、拓一たちは貧しい暮らしを強く生きていくことができるのである。
過酷な労働も、ままならない住環境も、わびしい食生活も、彼らは「心の豊かさ」でもって乗り越えようとする。
たとえどんなに悲しくても、どんなに苦しくても、拓一たちは決して希望を捨てようとはしない。
それが心の正しいありようだと、拓一たちは信じているからだ。
嫁に行った富が、いじわるな義母に過酷な労働を強いられている場面がある。
拓一は、そんな富を励ますように、次のような言葉を述べる。
「カラスは日追鳥とも言うんだぞ、知っているか」
と、大人っぽく聞いた。
(中略)
「俺たち、菊川先生に習ったぞ。人間もカラスを見習えってな。物事を明るく考えたり、明るい光を求めて生きて行けってな」
文庫版150より
太陽に向かって飛び続けるカラスは「日追鳥」と呼ばれている。
カラスというのは、一般的に忌み嫌われており「負のイメージ」を持つ鳥であるが、「日追鳥」というのは、そこに光を当てるような発想である。
――たとえ不遇であったとしても、逆境にあったとしても、自分たちは決して希望を捨てずに生きていく。
そうした拓一の信念がよく表れた場面である。
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解説④人生の不条理
突然だが、旧約聖書に「ヨブ記」という話がある。
詳しくここで紹介することは避けるが、要するに「善良な男が多くの悲しみや困難に直面する物語」だといっていい。
本書『泥流地帯』は、この「ヨブ記」が下敷きになっていると言われている。
生きることの悲しみや困難に直面する拓一たち。
彼らはそうした苦難を「正しい心」で乗り越えようと生きている。
そんな彼らの努力も実を結び、やがて生活は少しずつラクになっていく。
拓一は運よく徴兵から免れ、
耕作は晴れて教員となり、
富は武井と2人だけの生活を手に入れ、
そして、家族は10年ぶりに母と再会できる……
――三十年ぶりに迎える良い正月。
祖父の市三郎も祖母のキワもそういって喜ぶように、家族には久々に明るい光が兆してた。
……しかし、ことは、そう思い通りにはいかない。
ここで唐突だが、人生には「個人の意志」や「思い」では、どうすることもできない出来事が起こることがある。
どんなに筋違いであっても、どんなに道理に反していても、どんなに納得できないものであっても、それらはある日突然やってきて、僕たちを悲しみと苦しみのどん底に突き落としてしまう。
これを人々は「不条理」と呼ぶ。
拓一たちの身に起こっている悲しみの全ては、いってしまえば、この「不条理」であるといっていい。
なぜなら「両親の不在」も「家族の病」も「貧しい生活」も「心無い差別」も、それらは全て「拓一たちの意志」とは全くの無関係におきている出来事だからだ。
だけど、拓一たちは、そうした不条理も「正しい心」と「正しい行い」で乗り越えようとしてきた。
そんな彼らの意志や思いさえも、全くの無に帰してしまうような最大の不条理が起きてしまう。
それが「十勝岳の噴火」だった。
凄まじい轟音を鳴り響かせ、時速40㎞の速度で押し寄せた泥流は、あっという間に家を飲み込み、家畜を飲み込み、田畑を飲み込み、そして人々を飲み込む。
祖父、祖母、良子を助けるために泥流に飛び込んだ拓一の姿も、一瞬で見えなくなった。
1人残された耕作は絶望に打ちのめされる。
さて、実は、この『泥流地帯』という作品には、要所要所で「鳥の鳴き声」が描かれいてる。
拓一たちが悲しむ時も、苦しむ時も、喜ぶ時も、楽しむ時も、鳥たちは何も変わることなく泣き続けている。
そして、泥流が家族を飲み込み、彼らの遺体が発見され、ついに火葬しようというとき、拓一が悲痛な叫びをあげたまさにその瞬間、いつもと変わらない様子で郭公が鳴く。
「焼くのかあ! 焼かんきゃならんのかあ!」
拓一が叫んだ。郭公が遠く近くで啼いている。朗らかな声だった。
文庫本P517より
拓一にとってどんなに絶望的な状況であっても、自然は全くの無関心で、世界は何も変わることなく続いていく……
この「不条理」を描く三浦の筆致には唸らされる。
これまでの苦労や努力、ささやかだが幸福だった暮らし、そして最愛の家族……
そうした全てを失ってしまうことは、僕たち人間にとっては紛れもなく「大事件」である。
だが、それを地球規模で顧みたとき、それはただの「自然現象」や「自然の摂理」であって、そこにはいかなる意味も必然も見出すことはできない。
――大切な人が死んだことに、いかなる意味もない。
――弱いものが苦しむことに、いかなる意味もない。
そんなことが真実だったとしたら、僕たちはどうやってこの苦しい世界を生きていけばいいのだろう。
なぜ? どうして?
時に、すぐれた文学というのは、読者にそうした思いを抱かせる。
そして、その「なぜ?」や「どうして?」は、誰に向けてよいのか分からぬ怒りや悲しみをともなって、僕たちの存在を揺さぶってくる。
本書『底流地帯』というのは、まさに、そうした強烈な問いを読者に突きつけてくる。
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解説⑤悲しみに意味はあるのか
さて、いよいよ『泥流地帯』が僕たちに突きつけてくる、強烈な問いについて扱ってみよう。
それが「悲しみに意味はあるのか」という問いである。
もう少しかみ砕いて言えば、
「人生が悲しみに満ちたものであるとすれば、生きる意味はあるのか」
という問いである。
家族が泥流に飲み込まれてしまった時、耕作を支配したのは、まさにこの問いだった。
――どうして弱い者ばかりが苦しまなければならないのだろう。
――どうして罪のない者ばかりが苦しまなければならないのだろう。
どんなに正しい心をもっても、どんなに正しい行いをしても、自分たちが報われることはないのだろうか。
このときの耕作は、かつての祖母の言葉を思い出していたかもしれない。
「な、ばっちゃん、何で太陽ば拝む」
「何でって、ありがたいから拝むべさ。おてんとさまがなきゃ。人間だって、畠のもんだって、一日も生きていられんからな」
「だってばっちゃん、太陽は、拝む者にも、拝まん者にも照ってるべや」
「だからありがたいんだべ」
「なんぼ拝んでも、太陽からばっちゃんが見えっか。あの十勝岳からこっちみようたって、見えねえもんな」
拓一が笑う。
「見えんどもええ。真心は届くべ。誰にも見えん所でも、真心こめて生きるこった。さ、しゃべくってないで、早く仕事にかからんば」
文庫版P108より
しかし、どんなに真心を込めて生きても、報われることはなかった、何物にも届かなかった。
それどころか、これまでの自分たちをあざ笑うかのように、十勝の自然は耕作の大切なものを全て奪ってしまった。
人生の苦しみや悲しみに、いったいどんな意味がるというのだろう。
こうした耕作の思いは、物語のラストで次のように語られる。
「なあ、兄ちゃん。まじめに生きている者が、どうしてひどい目にあって死ぬんだべな」
と、先ほどの言葉をくり返した。
「わからんな、おれにも」
「こんなむごたらしい死に方をするなんて・・・・・・まじめに生きていても、馬鹿臭いようなもんだな」
文庫版P532より
自分を犠牲にしてでも人のために尽くしてきた、そんな耕作が最後にこぼしたのは
「どうせ全てがなくなるのなら、努力する意味はあるのか」
という悲観的な言葉だった。
これほど説得力のある言葉は、そうそうない。
耕作の生き方をしっている僕たちには、彼の言葉にたやすく反論することはできないだろう。
だけど、兄の拓一は、悲観的な耕作に対して、次のような言葉を返す。
「・・・・・・そうか、馬鹿臭いか」
拓一はじっと耕作を見て、
「おれはな耕作、あのまま泥流の中でおれが死んだとしても、馬鹿臭かったとは思わんぞ。もう一度生まれ変わったとしても、おれはやっぱり真面目に生きるつもりだぞ」
文庫版P533より
『泥流地帯』はこうして幕を閉じる。
さて、この拓一の言葉を、僕たち読者はどう受け止めるべきなのだろう。
たしかに、拓一のこの言葉は、耕作にとって一点の光となったに違いない。
そして、僕たち読者にとっても、一つの光明となっているのは間違いない。
だけど、と僕は思う。
だけど、この先に彼らに待ち受けるものはなんだろう。
家を失い、家族を失った拓一たちに待っているのは、これまで以上に過酷な現実であることは間違いない。
そうしたリアルを考えたときに、この拓一の言葉が「救い」になりうるかというと、残念ながら僕はそうとは思われない。
では、「どうせ人生に意味はない」と自暴自棄になって命を捨てるのが正解だろうか。
「真面目に生きても意味は無い」と、人を傷つけてでも、私利私欲を満たすのが正解だろうか。
その答えもまた、否である。
つまり、「とてつもない不条理の前に、人はどう生きていくべきか」についての答えは、簡単に出すことはできないのである。
そう、この『泥流地帯』という作品は、読後に強烈な問いを残す、とてつもない作品なのだ。
この記事の冒頭に、遠藤周作の言葉を引いた。
人間は人生のある時期、皆、同じような悲しみや苦しみを味わう
『幼なじみたち』より
これが真実だとすれば、人生は生きるに値するのか。
少なくても僕は、この『泥流地帯』を読んで、このとてつもないテーマに絡め取られてしまい、しばらくは他の本を読むことができなかった。
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感想「それでも光を求めて」
最後に、本書を読んだ僕の感想について簡単に述べて、この記事を締めくくろうと思う。
連日のように報道される悲しい事件や事故を知ったとき、僕はいつもこう思わずにいられない。
「どうして、世界には、こんなにも大きな悲しみが存在しているのだろう」と。
涙を流しながら会見にのぞむ被害者遺族。
その一方で、罪悪感のカケラもなく自己弁護をする加害者。
そうした残酷な対照を目の当たりにしたとき、
「どうして弱い者ばかりが苦しまなければならないのだろう。どうして罪のない者ばかりが苦しまなければならないのだろう」
と、僕は強い怒りと憤りを感じてしまう。
作者の三浦綾子は、その自伝的エッセイ『道ありき』で、「人生はどこまでも不条理である」と、何度も何度も述べている。
『泥流地帯』で描かれたのもまた、とてつもない不条理である。
ここまでの不条理に、人は耐えられるのだろうか。
それは分からない。
だけど、少なくとも拓一と耕作なら、きっとこの不条理に立ち向かって強く生きていくような予感がする。
それは、彼らのこれまでの生き方から「人生には意味がある」という信念のようなものを感じるからだ。
繰り返す。
彼らには「信念」があるのだ。
たとえ泥流という不条理に直面しても、その灯は消えてはいない。
さて、本書『泥流地帯』には、キリスト教に関する記述はほとんどない。
それでも、次のような「信仰」についての言及がある。
聖書には『正しき者には苦難がある』って、ちゃんと書いてあったぞ
文庫本P277より
――正しき者には苦難がある――
これを僕は「悲しみや苦しみには必ず意味がある」と解釈している。
だけど、これを心から信じることは容易ではない。
それくらい、現代の僕たちの思考は「合理性」に侵されてしまっている。
たとえ、神や仏の必要性を感じたとしても、
――でも、ほんとうにそんな存在はいるのだろうか?
――ほんとうに、この苦難に意味はあるのだろうか?
こうした疑いを捨て去ることはできないのが、僕たちではないだろうか。
だけど、「信仰」というのはそこから始まるのだ。
それを僕は三浦綾子や遠藤周作の文学から教わった。
「神はいる!」
そう確信している信者なんて、むしろ僕はとてつもなく怪しい人だと感じてしまう。
「悲しみに意味はある!」
そう断言する人なんて、むしろ僕は思考停止の自己欺瞞の人だと感じてしまう。
「本当に神はいるのか?」
「本当に悲しみに意味はあるのか?」
そういう疑いを捨てきないまま、それでもなんとか「光」を求めて、与えられた人生を生ききろうとする中に「信仰」はあるのだし、そこから「信仰」は始まるのだと感じている。
遠藤周作の言葉に、こんなものがある。
信仰とは99%の疑いと1%の希望だ
拓一と耕作が強く生きていけるのは、どんな苦難に直面したとしても、どんな悲しみに襲われたとしても、その1%の希望を決して絶やさないからなのだろう。
以上で『泥流地帯』の解説・考察を終わります。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
【 参考記事 解説・考察『続泥流地帯』—作者が伝えたかったことは?ヨブ記との共通点を参考に— 】
「三浦綾子」のオススメ作
ここでは、三浦作品の中で特にお勧めできる2作品を紹介したい。
塩狩峠
まずは長編小説。
『泥流地帯』でも描かれた「自己犠牲の精神」が美しく感動的に描いた感動作。
明治時代、北海道旭川の塩狩峠で、自らを犠牲にして大勢の乗客の命を救った実在する青年をモデルに、「愛」や「信仰」、「生きることの意味」を読者に問いかけてくる。
三浦綾子の最も有名な代表作。
未読の方はぜひ手にとってみてほしい。
道ありき
次に、三浦綾子の自伝的エッセイ。
――人間には生きる義務がある――
本書のこの言葉に出会い、僕は「生きること」に対する考えが大きく変わった。
人生の不条理に直面し、不安と孤独に苛まれ、自分が生きる意味を疑う者が救われていく道がある。
その道に出会えたとき、人間は優しく希望をもって生きていける。
そんなことを教えてくれる、愛と信仰と救済の書。
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