はじめに「哲学」って何?
「哲学」と聞いて、あなたはどんな印象を持つだろう。
たぶん多くの人は、高校時代に勉強した「倫理」を連想したり、ソクラテスだのプラトンだのアリストテレスだのといった有名な哲学者を思い浮かべたりするかもしれない。
あるいは「無知の知」とか、「三角形のイデア」とか、例の哲学用語を思いだ出したり、『純粋理性批判』とか『精神現象学』とかいった有名な書物を思い出したりするかもしれない。
すると、人々の感情として、
「哲学=なんだか小難しいもの」とか
「哲学=自分とは無縁なもの」とか
とにかく、哲学に対する「あまりよくない印象」を持つにいたってしまう。
だから、急いで強調しておきたいことがある。
それらを全部「哲学」ではない。
あえて言えば、それらは全部「哲学史」なのである。
「ソクラテス」とか「イデア論」とか「純粋理性批判」とかを覚えることは、言うまでもなく哲学の本質なんかじゃない。
「哲学」というのは、本来もっとおもしろくて、スリリングで、ちょっと恐ろしいもので、つまるところ、ずっとずっと魅力的なものなのだ。
この記事では、そんな哲学の主要テーマについて紹介したい。
今回扱うテーマをざっくりと言えば、
「ルールに従うって、どういうこと?」
「言葉が意味を持つって、どういうこと?」
といった問いである。
これらの問いは「分析哲学」というジャンルの主要テーマであり、頻繁に議論される問題でもある。
その中でも「規則のパラドックス」という有名な議論を取り上げ、その内容と問題の所在について分かりやすく解説をしていきたい。
では、最後までお付き合いください。
「規則のパラドックス」の概略
哲学史における大天才は数多くいるが、その中でもあえて1人だけ選ぼうとするなら、やっぱりウィトゲンシュタインが挙げられる。
彼は1900年初頭に活躍したオーストリア出身の哲学者なのだが、第一次世界大戦の軍役中に「カタ暇」でやった哲学によって、それまでの伝統的哲学を根底から覆してしまったとんでもない男だ。
そんなウィトゲンシュタインの有名な議論に「規則のパラドックス」なるものがある。
これは、彼の後期の代表作『哲学探究』に記された議論で、その内容をざっくりと言えば、
「ある人が“ルール”に従うってどういうこと?」
といったものだ
まず、原典『哲学探究』より、該当となる箇所を引用したい。
われわれのパラドックスはこうであった。規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方も規則と一致させることができるであろうから。
『哲学探究』201節より
さて、いきなりこんなことを言われても、素人の僕たちにはチンプンカンプンである。
それもそのはずで、このウィトゲンシュタインの著書はどれも例外なく「難解」であり、その解釈をめぐっては、世界各国の哲学者たちが「あーでもないこーでもない」と議論を続けているくらいなのだ。
では、ウィトゲンシュタインの言うところの「規則は行為の仕方を決定できない」とは一体どういうことなのだろう。
それに関して独自の視点から解釈した、これまた哲学史における大天才がいる。
それがソール・クリプキという男だ。
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「クリプキ」による解釈
ソール・クリプキはユダヤ系のアメリカ人で、現代哲学を代表する人物である。
彼はつねに、誰も思いつかないような奇抜な議論や哲学解釈をするため、世界中の哲学者たちから「大天才」とたたえられている。
さて、以下ではそんな“天才”クリプキによる「規則のパラドックス」の解釈を紹介したい。
まず、クリプキは「足し算」を例に挙げる。
たとえばここに生徒A君と、生徒B君がいたとしよう。
そしてあなたは、そんなA君とB君に「足し算」を教える教師だとしよう。
あなたはどうやって2人に「足し算」を教えるだろう。
きっとあなたは「1+1」を例題として挙げて「答えは2だよ~」と教え、次に「1+2」を例題として挙げて「答えは3だよ~」と教え、最期に「じゃあ1+3は?」といった確認問題を出題するはずだ。
その問題を解くA君とB君……
2人は「1+3=4」と難なく答え、「5+5=10」と難なく答え、「23+42=65」と難なく答え、こんな感じで初歩的な「足し算」については、全て答えることができた。
――よしよし、2人は足し算の「規則」をきちんと理解できたぞ――
そう思ったあなたは、ちょっと難易度を上げて、「答えが101以上」になる足し算を2人に出題した。
「50+51はいくつになるでしょうか?」
それに対して、A君とB君はそれぞれこう答えた。
- A君「101!」
- B君「100!」
ああ、やっぱり、101以上の数は難しかったか~
そう感じたあなたは、B君にやさしく「あせらないで、もう1回考えてごらん」と促した。
ところが、B君はなんどやっても「100!」と自信満々に答えるばかり。
あなたは「もう1度、簡単な計算から教えよう」と、B君に答えが「100以下」になる足し算を出題した。
するとB君は問題なく全問正解。
「なんだ、きちんとルールは理解してるじゃないか。じゃあ同じように50+51を解いてごらん」
そう言ってB君にせまるが、やっぱりB君は自信満々に「100!」と答えるばかり。
「いままでと同じようにやってごらん」
そうB君にいっても、
「いままでと同じようにやってるんだよ!」
と主張するB君。
さて、これは一体、どういうことなのだろうか。
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「足し算」と「クワス算」
足し算を勉強したてのA君と、B君。
一見して、足し算の「規則」を理解していたように見えた2人だったが「50+51」の問題において、2人の答えは分かれてしまった。
- A君「101!」
- B君「100!」
なぜ、このようなことが起こったのだろう。
この後、教師であるあなたは、B君にその他の問題を出題していくうちに、驚愕の事実を知ることとなる。
あなた「じゃあ、30+90は?」
B君「100!」
あなた「じゃ、じゃあ、80+80は?」
B君「100!」
あなた「じゃ、じゃ、じゃあ100+100は?」
B君「100!」
さて、このときB君に一体なにが起こっているのだろう。
クリプキによれば、B君は「足し算」のルールではなく、「クワス算」という彼独自のルールに従っていたのだという。
「クワス算」というのは、次のようなルールだそうだ。
・答えが100以下であれば、X+Yの答えは双方の和になる。 ・答えが101以上であれば、X+Yの答えは100になる。
つまり、A君の「規則」とB君の「規則」は異なっていたのである。
ただ、両者の違いが「答えが100以下」の問題において表面化しなかっただけなのだ。
「答えが100以下」であれば、「クワス算」でもXとYの単純な和を求めようとするため、「足し算」の規則とすれ違うことはない。
「答えが100以下」の足し算をしている限り、B君が「足し算」の規則に従っているのか、「クワス算」の規則に従っているのか、表面的には全く分からない。
しかも厄介なのは「+」の意味をA君のようにではなく、B君のように解釈したとしても、そこになんら矛盾点はないということなのだ。
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「クリプキ」への反論
さて、実際にはB君みたいなひねくれた生徒はいないため、この例え話を聞いたあなたは「こんなことあり得ない」と相手にしようとしないかもしれない
だけど、クリプキはそんなあなたにこういう。
「じゃあ、あなたの足し算のルールと、他の人のルールとが一致しているって、どうして言い切れるんですか?」
するとあなたは、きっとこう反論したくなる。
「いやいや、一致しているでしょ! だって、学校の授業でA君とB君みたいなすれ違いは全然なかったし、『算数のテスト』だって問題なく成り立っていたんだから」
ふむ。確かにA君たちのようなすれ違いはなかったかもしれない。
だけど、だからといって「あなたと他人の規則は一致している」と言い切ってよいのだろうか。
ここで改めて、A君とB君の「答えが100以下の足し算」について思い出してみて欲しい。
「答えが100以下」となる計算の中では、2人の間になんのズレもなかった。
だけど「答えが101以上」になったとたん、2人の間に決定的なズレが生じたのである。
これは、2人が「答えが100以下」の足し算をずーっと行っていたとしたら、すれ違いは全く生じなかったということになる。
「答えが100以下の数字」という限定された範囲なら、問題が表面化することはないのだ。
ひるがえってあなたがこれまでに行ってきた「足し算」について考えてみて欲しい。
言うまでもなく、あなたは無限に存在する数のうち、全ての数の「足し算」をしてきたわけではない。
あくまでしてきたのは「限られた範囲」の中での足し算である。
それは、上記のB君と何ら変わらない。
とすると、あなたにだってB君のようなことが起こりうるのではないだろうか。
つまり、次の瞬間に、周囲と決定的な食い違いが生まれ、
「あれ、俺だけ、みんなと違う規則に従ってたの?」
と衝撃を受けるという事態が、あなたにも起こり得るのではないだろうか。
たとえ、いま、あなたが周囲となんのズレも齟齬もなく足し算が出来ていたとしても、それはあなたが周囲と同じ規則に従っていることをなんら保障してはくれない。
「これまでそうだった」は「これからもそうである」とイコールではないのだ。
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「暗闇の中の跳躍」
「これまで」は「これから」を全く保障しない。
このことは、実は「足し算」の場合に限らない。
そう、他者とのコミュニケーションにおいても、全くおなじ事がいえるのだ。
あなたは普段、あたりまえのように他者と言葉によるコミュニケーションをとっている。
言葉を交わす中で「互いに意志の疎通がとれている」と、あなたは信じて疑わない。
だけど、ウィトゲンシュタインやクリプキが明らかにしたように「ズレや齟齬が生じない」ということは「同様の規則に従えている」ということを全く保障してはくれない。
次の瞬間には、あなただけが決定的な形で、周囲から取り残されてしまうかもしれないのだ。
「あの犬、かわいいねえ」
「ほんとだ、かわいいね」
あなたが友人と交わすこんなありふれたコミュニケーションだって、実は、全くもってすれ違っているかも知れないのである。
「あの」も「犬」も「かわいい」も。
あなたと友人との間で、それらの言葉の「意味」のやり取りがされているのか、実は全くもって謎なのである。
――言葉の意味――
実はこの「規則のパラドックス」でクリプキが鋭く問うたのも、まさにコレだった。
「言葉が意味をもつとはどういうことなのか?」
常識的にいって、僕たちは「犬」という言葉の意味を理解して、互いに「犬」という言葉を発し、「犬」というイメージを共有しているように思われる。
だけど、クリプキが指摘するのは、
「そもそも、言葉が『意味』を持つってどういうこと?」
ということであり、
「たとえコミュニケーションにずれが生じてなかったとしても、それは単なる偶然にすぎない」
ということなのだ。
しつこいようだが、あなたと友人の「犬」という言葉の使用法が決定的にズレていたことが、次の瞬間に露見してしまうかもしれない。
これが、あのウィトゲンシュタインの『哲学探究』にあった一節、
「規則は行為の仕方を決定できない」
という言葉の主旨である。
「犬」という言葉一つとってみても、その使用方法は、実際のところ1人1人てんでバラバラなのだろう。
万人に共通する『意味』なるものは、錯覚であり、幻想なのかもしれない。
じゃあ、僕たちは、他者とコミュニケーションを取ることは不可能なのだろうか。
「彼に僕の言葉は届かない」
そんなニヒルな態度で、それぞれが、それぞれの「規則」にしたがって、うわべだけの「音声」のやり取りをするしかないのだろうか。
クリプキは言う。
コミュニケーションは「信頼」である、と。
有名なクリプキの言葉に、こんなものがある。
言語におけるコミュニケーションは「暗闇への跳躍」である。
「おはよう」と挨拶をするとき、
「ごめんね」と謝るとき、
「好きだよ」と愛を伝えるとき、
相手に言葉を発するとは、それは本質的に「相手に意味は届くはずだ」と信頼して、勇気を振り絞ることなのだ。
それはちょうど、真っ暗な闇の中へ、意を決してダイブすることに似ている。
クリプキはそれを「暗闇への跳躍」と表現した。
クリプキは哲学者でもあり、詩人であると思わせる、超カッコいい名言だと僕は思う。
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・
「子ども」と「規則のパラドックス」
以上が「規則のパラドックス」の話である。
「みんながてんでバラバラな規則に従っている」
「次の瞬間、自分だけが規則から取り残される」
こんな奇妙な発想は、日常生活の中で普通は思いつかないし考えもしない。
要するに「机上の空論でしょ?」と思われがちな発想だといえる。
だけど僕は日常生活の中で、
「ああ、規則のパラドックスって、本当なんだなあ」
と思うことを何度も経験した。
その大半は、僕が「子ども」に言葉を教えるときのことだった。
あれは、ある雨が降る休日のことだった。
僕は当時3歳になる娘と散歩をした。
娘にはレインコートを着せて、長くつを履かせ、水玉模様の傘を持たせた。
初めて買ってもらった装いに、娘はいつもよりも心を弾ませ雨の中を歩いていた。
キョロキョロと周囲を眺める娘に、僕はこう言った。
「ほら、これが雨っていううんだよ」
娘は小さな声で「あめ」とつぶやいた。
そして、普段とは表情の違う景色にキョロキョロしながら散歩をしたのだった。
さて、後日の話だ。
その日は晴れの日で、僕と娘は相変わらず近所を散歩することに決めていた。
玄関で準備をしているとき、娘はしきりに「長靴」を指さしている。
「どうしたの?」
そう尋ねる僕に、娘は何度も何度も繰り返した。
「あめ、あめ」
驚いた僕は、
「いや、これは長靴でしょ」
というと、
「ながぐつ……」
と理解をしたようだったが、驚くことに彼女は次にレインコートを指さし「あめ」と言う。
「まさか」と思った僕は、あの水玉模様の傘を娘に見せて「これはなに?」と聞いた。
すると案の定、彼女は
「あめ」
と答えるのだった。
その時僕はふと、あの「規則のパラドックス」を思い出した。
彼女は独自の「あめ」に関する概念をもって、言葉を発していたのである。
あの雨の散歩以降、娘は空から降ってくる水滴に対して「あめ」と口にしていた。
それを見た僕は、娘が正しく「雨」の概念を理解していることを疑わなかった。(というか、そんなこと意識にも上らなかった)
だけど、「長靴」や「レインコート」や「傘」を前にして、娘が「あめ」と言葉を発したとき、僕の「雨」の使用法と、娘の「あめ」の使用法が決定的に異なることがはっきりした。
勿論、僕は「これは雨じゃなくて長靴」とか「これはレインコート」とか「これは傘」と、それぞれの名前を正してやった。
だけど、彼女がどのような理解をしたのかは、僕には分からない。
ひょっとしたら、水たまりを見て「あめ」というかもしれないし、びしょ濡れの犬を見て「あめ」というかもしれないし、あの日散歩のルートにあったあらゆるものを見て「あめ」というかもしれない。
もちろん、今のところ彼女は「長靴」も「レインコート」も「傘」も、僕と同じように使っているが、だけど次の瞬間、また決定的なズレが明らかになるかもしれないのだ。
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「言葉と他者」への信頼
以上が、僕が経験した「規則のパラドックス」である。
これは何も、子どもの話にとどまらない。
本質的に、僕たちと、僕たちを取り巻く全ての他者に言えることなのだ。
一見すると人々は、なんの不都合も齟齬もなくコミュニケーションをとれているけれど、その実、まったくコミュニケーションなんて取れていないかもしれないのだ。
次の瞬間に、自分と他者との間に、コミュニケーション上の致命的なズレを経験してしまうかもしれないのだ。
そんなことを考えるとき、僕はふと孤独を感じたりする。
目の前の人が、自分の言葉の「意味」なんて理解していないかもしれないと考えることは、とても淋しくて不安なことだ。
「ありがとう」も、「ごめんね」も、相手に発する全ての言葉が、相手にとって単なる「音声」でしかなかったとしたら。
「どういたしまして」も、「怒ってないよ」も、僕と全く異なる「規則」によって発せられた単なる「音声」でしかなかったとしたら。
言語によって他者とつながろうとする僕たち人間は、根源的に「一人ぼっち」ということになってしまう。
だけど、僕たちは言葉を、そして他者を捨てたりはしない。
「この言葉は、ちゃんとあの人に届くかな」
こうした不安は、別に哲学者じゃなくたって、誰しもが抱える心情だろう。
その中で僕たちは言葉を、そして他者を信じて言葉を発する。
「コミュニケーションは、暗闇の中への跳躍である」
クリプキの言葉は、そんな僕たちの不安定にあり方と、他者へのやむにやまれぬ求愛が表れた、鋭くも温かい言葉だと思う。
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・
おわりに「哲学」は“薬”にならない
以上、哲学のテーマ「規則」や「意味」をとりあげ、その主な議論や問題の所在について解説をしてきた。
「みんながてんでバラバラな規則に従っている」
「次の瞬間、自分だけが規則から取り残される」
突然そんなことを言われても、正直、僕たちの生活実感から大きくかけ離れているし、にわかには信じられない主張である。
もちろん、いちいちそんなこと考える必要はないし、信じる必要だってない。
ただ「規則」とか「意味」というのは、僕たちが思っている以上に不可解で、考えれば考えるほどグロテスクなものなのだ。
どうだろう。
今まで当たり前だと思ってきたこの世界が、途端によそよそしく感じられてこないだろうか。
こんな風に、「哲学」というのは本来、スリリングで、不気味で、怖ろしいものなのである。
さて、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
記事を読み終えたあたなは、ひょっとしてこんな風に感じたかもしれない。
いや、こんな問題、そもそも答えなんてでないし考えるだけ時間の無駄でしょ
はい、まったくもってその通り。
哲学なんてやったって、時間の無駄なのだ。
病気が治るわけでもないし、出世するわけでもない。
名声が手に入るわけでもないし、お金持ちになれるわけでもない。
いや、なんならこんなメンドクサイことを考えていたら 友だちが減るかもしれないし、彼女にフラれるかもしれないし、社会的な信用を失ってしまうかもしれないのだ。
哲学は「毒」にこそなれ、「薬」になることはない。
だけど、哲学することは、上記の通りとってもスリリングであるし、おもしろいと僕は思う。
というより僕自身、やっぱり不思議でならないのだ。この「世界」ってやつが。
「世界って本当は存在していないんじゃないの?」とか
「時間が“流れる”っていうけど、一体何が流れてるの?」とか
「僕が死んだら、僕は、この世界はどうなるの?」とか
少しでもそうした問いにとらわれてしまったことがある人にとって、哲学はとっても親和性のある世界だ。
この記事を読んで共感していただいた方は、ぜひブログ内の【哲学】の記事を参考にしていただきたい。
あなたの“ワクワク”や“ゾクゾク”のお供になれたなら、とても嬉しく思う。
オススメの「哲学本」
『分析哲学講義』(青山拓央)
この記事で取り上げたウィトゲンシュタインもクリプキも「分析哲学」と言われるジャンルの哲学者である。
そして分析哲学は、いまや現代哲学の主流ともいえる哲学である。
本書では、そんな分析哲学が扱う問題と、その手法、さらに分析哲学の魅力まで、幅広く紹介してくれる。
分析哲学に興味を持った人は、まずは本書を読むことをオススメしたい。
『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均)
ウィトゲンシュタインは、20世紀に突如として現れた天才的哲学者だ。
そんな彼の哲学とはどんなものだったのか。
彼が生涯を賭けて問いつづけた「語りえないもの」とは何なのか。
ウィトゲンシュタインについてもっと知りたいという人にオススメの1冊。
『ウィトゲンシュタインのパラドックス 』(ソール・クリプキ)
記事でも大きく紹介した現代の天才哲学者クリプキ。
本書はそんな彼の哲学の訳書。
もちろん「規則のパラドックス」についても触れられている。
値段的にちょっと高いけれど、読み応えのある1冊で、クリプキの奇抜な哲学の世界を味わえる。
「哲学」をするなら……
耳読書「Audible」がオススメ
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