はじめに「池田晶子」について
池田晶子は1960年生まれの哲学者だ。
「哲学」と聞くと身構えてしまう読者も多いと思うのだが、池田晶子は「難解な哲学用語」や「抽象概念」で語ることをせず、僕たちにとって身近な言葉を使いながら思索を続けていった書き手である。
彼女は自らを「哲学者」と称すことはせず、つねに「文筆家」と称していた。
そこには「人間として生まれたなら、“考える”ことは自然なこと」という彼女の信念がある。
人間として生まれたならば、誰しもが問わなければならない問いがある。
「自分ってなんだ?」
「世界ってなんだ?」
「死ってなんだ?」
それを考えるのは、人間として当たり前のことで、それを考えるところに人間の尊さがある。
「哲学」という名は、“考える”という営みに後から与えられた名前に過ぎない。
それが池田晶子の哲学観であり、彼女は意識的に「哲学」の特権みたいなものをはぎ取ろうした「文筆家」であった。
さて、この記事ではそんな池田晶子を論じた書『不滅の哲学 池田晶子』(若松英輔 著)を参考に、
- 言葉
- 救い
- 超越
- 自己
について考察をしていきたい。
若松英輔は、僕がもっとも敬愛する書き手の1人であり、彼もまた平易な言葉で「哲学」をする批評家である。
以下で考察する哲学観は、もちろん池田晶子のものであるが、それ以上に若松英輔のものでもある。
彼の哲学観、宗教観、死生観、そして人生観は、悲しみや苦しみの渦中にある人の心に突き刺さるし、彼の紡ぐ言葉はそんな人の涙をそっとぬぐってくれる優しさがある。
実際に僕も、本書『不滅の哲学』を読みながら、目頭を押さえることしきりだった。
池田晶子の著書と併せて、若松英輔の著書を読むことも、強くオススメする。
「言葉」について
言うまでもなく、哲学は「言葉」によって営まれる。
いや、それは哲学に限らない。
文学だって、宗教だって、人間の“思索”の全ては言葉なしには考えられない。
とかく人々は「言葉=コミュニケーションツール」くらいに考えがちなのだが、トンデモない。
言葉というのは、人間に操られる「道具」なんかではないのだ。
本書でも、池田晶子の次の言葉が紹介されている。
人間が言葉を話しているのではない。言葉が人間によって話しているのだ。(P169より)
さて、これは一体、どういう意味なのだろう。
あなたが言葉を発するとき、そこにはあなたを超えた「ある働き」が存在してる。
その「働き」を、若松英輔は、哲学者「井筒俊彦」のタームを借りて「コトバ」と表現する。
コトバは人間の恣意を超えて、世界に顕れ出ようとする。その通路になる者を、私たちは詩人あるいは芸術家と呼ぶ。かつては哲学者もそうだった。(P77より)
人間は「コトバ」の通り道
これが、池田や若松の人間観である。
たとえば、イエスやムハンマドなど、歴史には「神秘」を体験した者というのが少なからずいる。
彼らは、ほとんど例外なく「言葉」によって自らの体験を語りだす。
その時、彼らは自らの「意思」や「主体性」によって語っているのではない。
彼らの口を通して語っているのは、彼らを超越した「ある働き」なのである。
その働きは、時に「神」と呼ばれたりする。
かつて日本にも「イタコ」とか「ユタ」とか言われる神秘家たちが存在した。
そして世界に目を向ければ、洋の東西を問わず「神」の「コトバ」の通り道になった人間が存在する。
彼らは一般的に「シャーマン」と呼ばれているが、彼らの言葉はほとんど「詩」に近い。
「その(コトバ)の通路になる者を、私たちは詩人あるいは芸術家と呼ぶ。かつては哲学者もそうだった」
そう若松も言うう通り、「コトバ」が人間を通り抜けようとするとき、そこに「詩情(ポエジー)」が宿る。
だからこそ、聖書やコーランは極めて詩的なのだろう。
そしてそれは哲学も同じ。
哲学書の原典を読んでいると、もはや「詩」としか言いようのない言葉にであうことがあるのは、決して偶然ではない。
哲学も、宗教も、文学も、すべては同じ。
もっといえば、僕たちが紡ぐ「言葉」だって同じなのだ。
僕たちは、自らの「意志」とか「主体性」によって語っているのではない。
僕たちは「何者か」から、「語らされて」いるのだろう。
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「救い」について
若松は、本書で「コトバ」と「救い」の関係について、次のように述べている。
自己を救うコトバは、いつもその人の中に潜んでいる。(P11より)
池田や若松の言語観の1つに、
言葉とは救いだ
というものがある。
これは別に難しい話じゃない。
悲しみや苦しみの渦中にあるとき、僕たちは言葉を求めるからだ。
たとえば小説の一節に、友人の励ましに、見知らぬ人の何気ない一言に。
「言葉」によって救われた経験は、きっと誰しも一度はあるのではないだろうか。
だけど、ふと次のような疑問を抱かないだろうか。
そもそも、なぜ「言葉」というのは僕たちの救いになりうるのだろうか。
それは、言葉には、僕たちの存在と共鳴する、ある「働き」があるからなのだろう。
僕たちは「言葉」の奥底に宿る、ある「働き」によって救われているのだ。
繰り返しになるが、若松はその働きを、井筒俊彦のタームを借りて「コトバ」と表現する。
「コトバ」と無縁な人はいない。
日常的に言葉を話す人はもちろん、身体的な制限で言葉を話せない人にも、あらゆる人間に「コトバ」はきちんと宿っている。
その「コトバ」と触れる契機は、時に小説の一節であったり、時に友人の励ましであったり、時に見知らぬ人の何気ない一言だったりする。
そして、悲しみが癒えるとき、苦しみが和らぐとき、いわゆる「救い」がもたらされるのは、その「コトバ」に触れ得たときなのだ。
繰り返すが、「コトバ」は誰のうちにも宿っている。
とすれば、「救い」の芽も、誰のうちにも宿っている。
そして「言葉」によって、その「救い」に至ろうとする営み、それが「哲学」であり「宗教」であり「芸術」なのだろう。
僕たちが救われるために「既存の宗教」も「教会」も「寺院」も必要ない。
信じるものも、信じないものも、等しく救われる世界がある。
池田晶子はそのことを「思索」によって証明しようとした哲学者だった。
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「超越」について
誰の内にも「救い」の芽は宿っている。
先ほど、僕はそう書いたが、その「救いの芽」には多くの別名がある。
たとえば、井筒俊彦はそれを「コトバ」と表現したことは、すでに紹介した。
キリスト教の文脈では、それを「ゴッド」と呼んでいるし、イスラム教の文脈では「アッラー」と呼んでいる。
浄土真宗では「阿弥陀如来」と呼んでいるし、真言宗では「大日如来」と呼んでいる。
「ゴッド」「アッラー」「阿弥陀如来」「大日如来」・・・・・・
それらから個別の文脈をのぞいたとき、その「神秘体験」は「超越との出会い」と言い換えることができるだろう。
その超越との出会いは、先に触れた「救い」とほぼ同義語といっていい。
そして、「超越との出会い」は、何も宗教に限った話ではない。
たとえば、ソクラテスは超越を「ダイモン」と呼んだし、その弟子プラトンは「イデア」と呼んだし、日本の哲学者の西田幾多郎は、超越との出会いを「純粋経験」と呼んだ。
それらは、先の井筒俊彦の「コトバ」との出会いと共鳴する概念でもある。
本書において、若松英輔は、井筒俊彦の「コトバ」と「超越」の関係について、こう説明している。
井筒俊彦の哲学は、「存在はコトバである」の一節に収斂する。ここでの「存在」とは超越者、あるいはその働きだと考えて良い。(P222より)
若松英輔の批評には、井筒俊彦の「コトバ」という概念がたびたび援用されるが、それを「超越」と言い換えても差し支えはないだろう。
こんな風に「超越」に様々な名前が与えられるのは、「超越」が言語で語り尽くせないことの証拠でもある。
そして、歴代の宗教家や哲学者や詩人たちは、その語り得ぬ「超越」を、なんとか語ろうとした人々だった。
池田晶子もまた同じ。
彼女も、「超越」を言語で語ろうと格闘した哲学者だった。
若松英輔は、池田晶子についてこう述べている。
彼女もまた、「存在はコトバである」と感じた思索者だった。
存在 = 超越者 = コトバ
これはすでに確認したとおり。
池田晶子と井筒俊彦、両者の哲学の本質は同じと言うことができる。
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「自己」について
それでは、人間は、いったいどこで「超越」と出会うことができるのだろう。
それについては、この記事の「救い」の章において、実はすでに触れている。
僕はさきほど、
「コトバ」は誰の内にも宿っている
と書いた。
それは、言い換えれば、
「超越」は誰の内にも宿っている
ということになる。
ここに、池田晶子や若松英輔の人間観がよく表れている。
たとえば、本書にはこんな一節がある。
「人間は宿りである」(『新・考えるヒント』)と、池田晶子は書く。人間とは何者かが宿る場である、というのが池田晶子の存在論であり生命論だった。(P160より)
これは一般的な人間観とは異なる考え方だろう。
一般的な人間観や世界観は、
「人間は、個々に独立した主体である」
というものだからだ。
ここでいう「個人」とは、いわゆる「近代的自我」と呼ばれるものであるが、それをネガティブに言い換えれば
「世界から切り離された存在」
ということになる。
多くの人たちは、「自分」とは目に見える「個人」のことだと思いこんでいて、その個人というのは、それぞれ独立した存在であると考えている。
ところが、池田晶子は違う。
本書では、池田の言葉が次のように引用されている。
「自分」をめぐって池田は、次のようにも書いている。「人は、目に見えるものをのみ信じすぎる。他者とは目に見えるその個人であり、自分もまた目に見えるこの個人であると思い込んでいる」(P166より)
真の自己とは、目に見える「個人」のことではないだ。
真の自己とは、個人の中に宿っている「何者か」である。
その「何者か」とは、「個人」とか「自我」の、そのずっと深奥に宿る存在のことだ。
そして、しつこいようだが、その「何者か」は、「コトバ」とか「超越」とか呼ばれる存在のことだ。
哲学や宗教とは、本質的には「自己」を探求する営みだ。
もっと言えば、「個人」とか「自我」という臆見を破る営みだ。
池田晶子にとっての哲学とは、言葉や思索によって、「真の自己」に肉薄することだった。
僕たちは「個人」でありながら、個人を超越した「自己」を生きている。
この世界を認識しているのは、「自我」ではなく、その奥に存在する「超越」だ。
このことを池田は「一人称の謎」とか「私の無私」という言葉で表現している。
そして、繰り返しになるが、池田にとって哲学とは、思索によって「自我」という臆見をやぶり、「自己」という真実に到達することを目指す営みだった。
自己に到達することを、池田は「知る」ということばで説明をする。
そして、かのプラトンは、
「知る」とは思い出すことである。
といった。
これはプラトンの有名な「想起」(アナムネーシス)という考え方だ。
「知る」というのは、決して「新しいことを知覚すること」なのではない。
「知る」というのは、今、ここに、確かにあるはずの「真実の自己」の実在を思い出すことなのだろう。
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おわりに「不滅」について
本書のタイトルに使われている「不滅」とは、池田晶子が用いた言葉だ。
池田晶子は、魂の「不滅」を信じていた。
いや、ひょっとしたら「知っていた」のかもしれない。
近代的自然観によれば、人間はあくまで「物質的」な存在であり、人間は死によって「消滅」するという。
本書で論じられた池田晶子も、それを論じた若松英輔も、彼が取り上げたソクラテスも、プラトンも、デカルトも、井筒俊彦も・・・・・・あらゆる思索者たちは「魂の不滅」を語った人だった。
若松は、次のように言う。
消滅としての死は存在しない。存在は「死」のあとも「存在」する。(P92より)
近代が生み出した最大の臆見は「死 = 消滅」という死生観だ。
確かに、僕たちの肉体は死によって滅びるのかもしれない。
だけど、魂は不滅だ。
“魂”という言葉が気にくわないなら、なんだっていい。
「にんじん」だろうが「たまねぎ」だろうが、この際、記号は意味をなさない。
僕たちは「肉体」を生きているのではないし、僕たちは「自我」を生きているのではない。
いま、ここで、生きているのは「僕」じゃない「何者か」なのだ。
死しても「何者か」は決して消滅しない。
最後に若松英輔の死生観を表す一節を紹介して、この記事を締めくくりたい。
死とは肉体との別れだったが、この世との決別ではない。死は、新生と同義だった。(P152より)
以上です。
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