はじめに
川端康成、と聞いて、その名を知らない文学ファンはいないだろう。
川端は昭和初期に文壇にデビューし、その後、ノーベル文学賞を受賞した日本を代表する作家だからである。
そんな川端と同時期にデビューし、ともに若き日を文学に費やした天才作家がいる。
それが横光利一である。
と、こう聞いても多分多くの人がピンとこないと思う。
さらに、彼の文学的な立場である「新感覚派」と聞けば、なおさらピンとこないだろう。
とはいえ、日本の文学史を語る上で、「横光利一」も「新感覚派」も、決して無視することはできない。
現代の文学に残した影響は決して多くはないものの、「既成の文学」を乗り越えようとした彼の理想は、今もなお、文学を志すものたちの中に脈々と受け継がれているからだ。
この記事では、そんな「横光利一」と「新感覚派」について徹底解説をし、その上で彼の代表作やその評価についても紹介をしたい。
文学好きの方は必見、お時間の許すかぎり、最後までお付き合いください。
新感覚派とは
定義と文学理念
新感覚派とは何か、結論をいうと次の通りである。
以上が新感覚派の定義になる。
まず、新感覚派の大きな特徴として、「西欧文学の手法を採用した点」と「新たな文学を生み出そうとした点」の大きく2点が挙げられる。
こうした新感覚派の代表的作家としてあげられるのが「横光利一」と「川端康成」である。
ただし、川端康成の場合、あくまで「初期の作品」に限定されており、彼の代表作の多くは新感覚派とはほとんど無縁な作品である。
一方の横光利一の作品には「新感覚的」な作品が多く、しかも、横光は自らのライフワークとして新感覚派運動(新たな文学の追求)に取り組んでいた。
そうした事情もあって、一般的には「新感覚派=横光利一」と認識されている。
ちなみに、新感覚派運動が起こったのは、1920年代~1930年代と言われているが、それは、おもに横光利一が活躍した時代とほぼ一致している。
では、そもそも「新感覚」とは、一体なんなのだろう。
何が「新」で、「感覚」というのはどういう意味なのだろう。
それについては、横光自身が次のように説明している。
そこで、感覚と新感覚との相違であるが、新感覚は、その触発体としての客観が純粋客観のみならず、一切の形式的仮像をも含み意識一般のいずれの表彰内容をも含む統一体としての主観的客観から触発された感性的認識の資料の表象であり……( 以下省略 )
正直もう、何を言っているのか分からないので、引用を途中でやめてしまったが、こんな感じで「新感覚」が何であるのか、はっきり定義することは難しいのである。
というか、たぶん横光自身も「新感覚が何であるのか」明確に言語化することができなかったのだ。
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横光文学の特徴
とはいえ、横光の代表作を読んでみれば、これまでの文学にはない特徴というものがあげられる。
それらをまとめると、次のようになる。
こうして見てみると、横光は、そもそも読者からの解釈を徹底して拒んでいるように思われてくる。
そうなのだ。
横光文学というのは、文学に馴染みのない読者から見ると、
「ちょっと何言っているか分からない」
そういう文学なのである。
とはいえ、そこには横光の理想があって、彼は「既存の枠組」にとらわれない斬新な作品を書こうと腐心していたのだ。
そのために、彼が参考にしたもの、それが「西欧文学」だったのである。
具体的には、
- ジョイス(アイルランド作家)
- プルースト(フランス作家)
- フロベール(フランス作家)
- モーパッサン(フランス作家)
- ジッド(フランス作家)
と、やはり多くは、世界的に最も勢いがあったフランスの作家たちだった。
ちなみに、横光の文学に三人称が多いのも、当時日本の主流となりつつあった「私小説」への反発があると見ていいだろう。
モダニズム文学
こんな風に、横光利一の文学は「既存の日本文学への反発」と「西欧文学への憧憬」がある。
そして、彼が標榜する「新感覚派」というのは(横光が何を言ってるのかちょっと分からないけれど)、西欧的な文体やテーマを採用することで、これまでにない新しい世界観を持つ文学を志向する、そういう文学的立場のことだと考えて良い。
なお、「西欧文学の手法を取り入れ、既存の枠組を打破しようとした日本文学」のことを、広く「モダニズム文学」と呼ぶ。
【 参考記事 解説【モダニズム文学とは】—新感覚派、新興芸術派、新心理主義の違いを分かりやすく— 】
新感覚派というのは、モダニズム文学の1つの潮流だったと考えられている。
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年表(横光利一の生涯)
幼少期~早稲田大学時代
ここでは、横光利一が「どんな人か」について、詳しく解説をしたい。
1989年、福島県に生まれた横光利一は、鉄道土木工事を請け負っていた父親の仕事の関係で、千葉、東京、山梨、三重、広島、滋賀を転々としながら幼少期を過ごした。
小学校では、なんと十数回にわたる転校を経験したという。
こうしたある種の「故郷の喪失体験」は、横光利一の文学の原点であるといわれていて、特に晩年の未完の作品『旅愁』という作品には、「故郷への憧れ」の念が色濃く描かれている。
また、「故郷の焼失体験」は、自らの出生や出自を描く伝統的な「私小説」に対する嫌悪感にもつながっていて、横光が自分の体験をベースにした作品をほとんど書こうとしなかった原因であるともいわれている。
18歳のころ、早稲田大学高等予科の英文科へと進学をする。
この頃のエピソードとして「女中寝取られ事件」というものがある。
これは、横光が懇意にしていた女中を、友人に寝取られてしまったという、名前のまんまの事件なのであるが、このとき横光に投げかけられた、
「嫉妬はしなかったのか」
という質問に対する返答が興味深い。
「嫉妬は君、恋愛に付随する、必然の副産物だからね。僕はそれ以来、女性も友人も信じなくなった」
ここには、横光の、
「恋愛してれば、嫉妬するなんて当たり前でしょ」
という達観した恋愛観と、
「恋は人をエゴイスティックにする」
という諦めにも似た人生観が良く表れている。
こんな風に、精神的に早熟であるように見える横光だったが、都会での生活に適応できなかったようで、休学や長期欠席を繰り返すようになる。
文学に目覚めたのは、ちょうどこの頃だった。
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運命の出会いと文壇デビュー
自らの作品を文芸誌に投稿し続ける中で、ある日、生涯の師となる「菊池寛」と知り合う。
菊池寛といえば、当時「文藝春秋」を創刊したことでも有名な作家である。
横光は「文藝春秋」の同人に参加し、菊池寛のもとで修行を積んでいく。
そして、横光25歳のころ、『蠅』を「文藝春秋」に発表し文壇デビューをする。
さらに、立て続けに、雑誌「新小説」に『日輪』を発表。
あっという間に、横光は“新進作家”として注目されるようになった。
こんなふうに、横光が作家デビューするきっかけを作ったのは、師である菊池寛の存在が大きかったわけだが、実は菊池寛との出会いは、横光にもう一つの大きな出会いを与えていた。
それが、終生の友となる「川端康成」との出会いである。
2人の出会いは、横光が23歳の頃のこと。
菊池寛が、川端康成に対して、
「あいつはえらい男だから友だちになっておけ」
と、横光を推薦したことが大きなきっかけとなったと言われている。
横光が『蠅』と『日輪』を発表した翌年、つまり26歳のころ、横光は川端らとともに雑誌「文芸時代」を創刊する。
この「文芸時代」は、プロレタリア文学が勢力を拡大しつつあった当時、それに対抗する「芸術派」(反プロレタリア)の文学の拠点となっていった。
そこに掲載した『頭ならびに腹』などの斬新な表現が注目され、やがて横光は川端と並んで「新感覚派」とよばれるようになる。( 新感覚派については先述したとおり )
こうして、文学の一時代を築こうと、作家として新たなスタートをきった横光だったが、師の菊池寛からは「裏切り行為」と見なされてしまい、一時の騒動に発展してしまったといわれている。
文壇からの高評価
文壇デビューを果たし、その後も「新感覚派」として斬新で前衛的な作品を生み出し続けた横光だったが、そんな彼に、大きな事件が起きる。
妻のキミの死去である。
このとき横光は27歳、キミは20歳。
まさに夫婦生活もこれからという矢先の出来事だった。
横光は妻の死の翌年に『春は馬車に乗って』を発表する。
この作品は最愛の妻を亡くした体験をもとにした、横光に珍しい「私小説」的な作品となっている。
本作は新感覚派の作品とは決していえないが、発表後大きな反響を呼び、様々な論者から「傑作」と評価された。
そして、32歳の年、横光文学の最大の代表作『機械』を発表する。
この作品で、新感覚派作家としての知名度を確固たるものにした横光は、一部の崇拝者たちから「文学の神様」とまで呼ばれるようになった。
横光とも親交があった伊藤整は、
「俺がやろうとしていたことを、横光はついにやりやがった!」
と絶賛。
伊藤がやりたかったことは、つまり、ヨーロッパの文学の手法を取り入れて、まったく新しい文学を完成させることだったのだが、横光はそれをやり遂げた日本で最初の作家だというわけだ。
その他にも、川端康成や小林秀雄なんかも『機械』という作品を絶賛した。
ただ、横光の作家人生のピークはここに極まったといっていい。
ここから彼の「芸術家」としての凋落が始まっていく。
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新感覚派運動の失敗
代表作にして傑作『機械』を発表後、横光の文学観は徐々に変化していくことになる。
まず、デビュー後10年にわたり採用してきた新感覚派の手法を徐々に捨てはじめる。
そして、読者にとっての「分かりやすさ」取り入れるようになる。
これは要するに、「純文学」と「大衆小説」の融合なのだが、こうした新しい横光の文学理念は『純粋小説論』で発表された。
また、この頃、菊池寛によって創設された芥川賞の選考委員になる。
言うまでもなく、芥川賞とは純文学の新人賞でありながら、商業的・大衆的な性質が強い賞だ。
こうした芥川賞の選考委員を務める背景には、横光の芽生え始めた「通俗性」があると見て良いだろう。
とはいえ、もちろん横光は完全に新感覚派作家としての生き方を捨てたわけではなかった。
「もう一度、自分にとっての記念碑的な作品を書きたい」
「新感覚派の手法で、満足のいく文学を完成させたい」
そうした思いを暖め続けた彼は、半年にわたる欧州旅行へと出かける。
そこで改めて、西欧社会や西欧文学を見つめ直そうと思ったのだ。
ところが、その思いとは裏腹に、横光は「西欧」に対して疑問を抱くようになっていき、その反動として、東洋と、引いては日本に対する肯定的感情を強めていく。
こうして描かれたのが『旅愁』という長編小説だった。
しかし、残念ながら、この作品は失敗に終わったと言われている。
連載小説として10年にわたって書き継がれていったが、とうとう完成することはなかったのだ。
というのも、新感覚派の手法は、長編小説との相性がおそろしく悪かったのである。
横光は自らの文学の集大成として『旅愁』を描こうとしていたわけだが、その結果は皮肉なことに「新感覚派」の限界を横光に突きつけることになってしまったのだった。
しかも、『旅愁』は徐々に、横光の右翼的・国粋的な思想を色濃くしていく。
「文学は政治の手段じゃない!」
そうやって、あれほどプロレタリア文学に反発を抱いていた横光は、いつしか、自らの文学に政治や思想を書き込むようになっていたのである。
横光が『旅愁』の執筆をやめたのも、『旅愁』が失敗作だったと評されるのも、横光の文学的な挫折が大きな理由だといっていいだろう。
その後、作家としては全くパッとしない日々が続き、もはや「新感覚派の旗手」としての面影は完全になくなっていた。
そして、終戦後まもなく、横光は『旅愁』で書いたことが理由に「文壇の戦犯者」との烙印を押されるにいたる。
こうして失意と悲しみの中、横光は胃潰瘍と腹膜炎のため、この世を去った。
享年49歳。
横光の死とともに、新感覚派の文学運動も完全に終焉を迎えた。
横光利一の代表作
最後に、横光文学の中から代表的な作品をいくつか紹介しよう。
『御身』
こちらは、横光文学の中でも超初期の作品で、3歳くらいの幼い姪に対する主人公の愛を描いた短編小説だ。
特筆すべきは、横光文学には珍しい「横光自身の体験」をモチーフにした「私小説」的性格の強い点である。
これ以降の横光文学は、先述した「新感覚」的な作品が多く、悪く言うと“奇をてらった”ものが目立っていく中、この『御身』はとても素直な作品だといっていい。
ちなみに、横光の死後に発表されたということで、認知度は決して高くはない作品なのだが、日本文学者の「ドナルド・キーン」は。「初期のものでは最もいい」と高く評価している。
『蠅』
横光文学の代表作の1つ。
こちらも初期の作品なのだが、すでに「新感覚派」としての片鱗が見て取れる作品だ。
この作品の何が新しいのかというと、なんといっても「蠅の視点」から物語を描いた点だといえる。
馬車の転落事故の顛末を描いた作品なのだが、その馬の背中に止まった「蠅」が、この小説世界の中心となる。
ラストシーンで、「死に絶えた乗客と、それを観察する一匹の蠅」という構図が印象的に描かれる。
横光自身、この作品について、
「生き残った蠅が活動をし出すところに、不可思議な感覚を放射する」
と語っており、この「不可思議な感覚」こそ、横光が描こうとした「新感覚」なのだと言えるだろう。
『日輪』
タイトルの「日輪」は「光り輝く卑弥呼の存在」である。
とにかく読みにくい。
新感覚派も突き詰めると、ここまで難解な作品になるのか、というのが正直な感想。
とはいえ、発表後、かなり世間から注目された作品である。
その理由は、「卑弥呼の時代」を扱いつつ、「惨殺される人々」を描いたという猟奇性というか斬新奇抜さが刺激的だったのだろう。
横光を有名にした作品ではある。
ただ、評論家によっては「駄作」と厳しい評価もあり、賛否両論の問題作だといえるだろう。
ちなみに、1925年に映画化もされている。
『春は馬車に乗って』
こちらも、横光文学の中では珍しい「私小説」的な作品となっている。
モチーフは、早世の妻「キミ」の最後だ。
タイトルの「春は馬車に乗って」の意味は、ラストシーンによっている。
夫が病床の妻にスイートピーの花束を送るシーンなのだが、その際に夫は妻に次のように言う。
「此の花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ」
横光の亡き妻への思いを垣間見ることができる小説で、傑作の呼び声も高い。
ただ、繰り返すが「新感覚」的な作品ではないので、その点は注意が必要。
『機械』
横光文学の代名詞とも言われ、横光文学における最高傑作。
この作品がきっかけとなり、横光は「文学の神様」とまで呼ばれるようになった。
ネームプレート製造工場ではたらく4人の男と、不可解な死亡事故を描いているのだが、そのテーマは「人間に自由意志はあるのか」といったもの。
タイトルの「機械」というのは、人間の外部で働き、人間を支配する原理であり、ありていに言えば「運命」のようなものである。
この作品には、横光利一の諦念にも似た人間観が表れているとみて良いだろう。
とにかく、多くの評論家や文学者が絶賛した作品で、この作品で横光は「新感覚派」とは何かを文壇に提示することができたと思われる。
『上海』
中国・上海で起きた反日民族運動と、そこに住み、浮遊し彷徨する1人の日本人の苦悩を描いた作品。
日本文学者のドナルド・キーンは「横光文学の中で、最もすぐれた描写」と評価しており、横光自身も「もっとも力を尽くした作品」と語っている。
総じて、「新感覚派」の文章を味わうのには、とても参考になる1冊だといっていいだろう。
横光といえば短編の名手という印象があるが、長編小説にも独特の読み応えがある。
【 参考 】
日本文学を学びたい人へ
この記事にたどり着いた方の多くは、おそらく「日本文学」に興味がある方だと思う。
日本文学の歴史というのは結構複雑で、「〇〇主義」とか「〇〇派」とか、それらの関係をきちんと整理することが難しい。
そこでオススメしたいのが、日本文学者「ドナルド・キーン」の代表作『日本文学の歴史』シリーズだ。
日本文学史の流れはもちろん、各作家の生涯や文学観、代表作などを丁寧に解説してくれる。
解説の端々にドナルド・キーンの日本文学への深い愛情と鋭い洞察が光っていて、「日本文学とは何か」を深く理解することができる。
古代・中世編(全6巻)は奈良時代から安土桃山時代の文学を解説したもので、近世編(全2巻)は江戸時代の文学を解説したもので、近現代編(全9巻)は明治時代から戦後までの文学を解説したものだ。
本書を読めば、間違いなくその辺の文学部の学生よりも日本文学を語ることができるようになるし、文学を学びたい人であれば、ぜひ全巻手元に置いておきたい。
ちなみに、文学部出身の僕も「日本文学をもっと学びたい」と思い、このシリーズを大人買いしたクチだ。
この記事の多くも本書を参考にしていて、今でもドナルド・キーンの書籍からは多くのことを学ばせてもらっている。
Audibleで日本文学を聞く
今、急激にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。【 Audible(オーディブル)HP 】
Audibleを利用すれば、夏目漱石や、谷崎潤一郎、志賀直哉、芥川龍之介、太宰治など 日本近代文学 の代表作品・人気作品が 月額1500円で“聴き放題”。
対象のタイトルは非常に多く、日本近代文学の勘所は 問題なく押さえることができる。
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