考察・解説・あらすじ『沈黙』(遠藤周作)ー日本人にとって宗教とはー

宗教

作者について

遠藤周作とキリスト教

遠藤周作を語る上で、絶対に切り離せないものがある。

それはキリスト教だ。

幼いころ、両親が離婚。

母親に引き取られた遠藤周作は、12歳のころ、母親に連れて行かれた教会で洗礼を受けた。

後に遠藤周作は、当時のことを振り返り、こう言っている。

「ぼくは、母から着せられたダブダブの洋服を着こなすのに苦労した

ここでいう「タブタブの洋服」こそ、キリスト教のことだ

彼にとってキリスト教とは、母から「着せられた」もの、つまり自分の意志とは無関係に与えられたものだった。

「押しつけられた信仰」

そういい変えても良いだろう。

「遠藤文学」のテーマ

だが、その押しつけられた信仰こそが、彼にとっては創作する原動力であり、創作する目的でもあった。

後に遠藤周作は、こうも言っている。

「小説を書くということは、着せられたタブタブの洋服を着こなすために、和風に仕立て直す作業だった」

ここで「和風に仕立て直す」とは、「日本人としての自分自身と折り合いをつける」くらいの意味だろう。

遠藤周作にとって、キリスト教とは、どうしても納得のいかない不可解な世界だった。

そして、押しつけられたキリスト教と、押しつけられた信仰によって、彼はずっと居心地の悪さを感じていた。

彼の作家人生は、「自分にとってキリスト教ってなんだろう?」という自問自答の連続だったわけだ。

そして、この問題意識こそが遠藤文学のテーマの根幹にある。

遠藤文学には、つぎのようなテーマが色濃い。

  • 「日本人にとってキリスト教ってなんだろう」
  • 「日本人にとって神ってなんだろう」

という、日本人とキリスト教の関係を問うもの。

  • 「宗教ってなんだろう」
  • 「救済ってなんだろう」

という、宗教の本質を問うもの。

彼は決して、美しい文章を書いたり、人々を楽しませるストーリーを書いたりする作家ではない。

彼は、自らを評して「テーマ型の作家」といっている。

彼は、人間の弱さとか、みにくさとか、みじめさとか、そういうぼくたちのリアルな姿を徹底的にみつめ、そんな人間が救われていく道を、血まなこなって追究した作家なのだ。

そんな彼の代表作であり、最高傑作であり、最大の問題作、

それが『沈黙』だ。

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あらすじ

時は江戸時代。

場所はキリシタン禁制下の長崎

主人公は宣教師のロドリゴ

宣教師ロドリゴは、軟弱な日本人キチジローの案内で長崎に入る。

ロドリゴは、隠れキリシタンの村人たちから歓迎され、彼らに教えを説く。

やがて、ロドリゴは、彼の噂を聞いた役人に追われはじめる。

そして、キチジローの密告により、役人に捕らえられてしまう。

棄教を迫られるロドリゴ

そんな逆境の中で、ロドリゴはひたすら神の福音と勝利を祈る。

それでも、連日続く、役人による激しいキリスト教弾圧.。

依然として、神による福音の兆しは一切ない

自然とロドリゴの中で、ある問いが芽生える。

「わたしがこんなに苦しいのに、神よ、なぜあなたは沈黙したままなのですか?

牢につながれ、棄教を迫られる毎日。

そんな中で、毎晩ロドリゴを悩ませているものがあった。

それは、隣室から聞こえてくる「イビキ」だった。

「たのむから、あのイビキをとめてくれ!」と訴えるロドリゴ。

だが、それは「いびき」なんかではなく、拷問による村人たちの「うめき声」だった。

彼らは、すでに棄教をしているが、ロドリゴが棄教しないために拷問されているのだという。

それを知らせれたロドリゴは、ついに棄教を決め、踏み絵に足をかける。

その時、「神」がロドリゴに語りかけてくる。

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」

この作品には、「人間のエゴイズム」や「信仰とはなにか」や「人間にとっての救いとは何か」といった、たくさんのテーマがある。

とにかく、読む角度から沢山の問いを与えられる、とても奥行きの深い作品だ。

そんな本書を、以下では5つのテーマにしぼって考察してみたい

  • 「人間のエゴイズム」
  • 「沈黙の意味」
  • 「遠藤周作のキリスト観」
  • 「日本にキリスト教は根ざすのか」
  • 「遠藤周作の宗教観」

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考察:「人間のエゴイズム」

まず、この作品にはまるで通奏低音のように流れている一つのテーマがある。

それは、人間のエゴイズムだ。

エゴイズムとは、自分を最優先させる人間の在り方で、もっとひらたくいってしまうと、

「自分勝手にふるまうさま」だ。

キチジローのエゴイズム

そのエゴイズムを、とことんまで体現している人物がいる。

「キチジロー」という日本人だ。

彼もまた隠れキリシタンなのだが、保身のため早々に踏み絵を踏み、棄教している

それだけでなく、彼はロドリゴを長崎に招き入れておきながら、役人らによる捜索が始まるや、いとも簡単にロドリゴを売り渡してしまう

以下は、ロドリゴがとらえられる場面だ。

パードレ。ゆるしてつかわさい

キチジローは、地面にひざまづいたまま泣くように叫びました。

「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウんごた、強かもんになりえまっせん」

 男たちの腕が私の体をつかみ、地面から立たせました。その1人がいくつかの小さな銀を、まだひざまづいているキチジローの鼻先にさげすむように投げつけました

キチジローは、自らの保身と、わずかな銀貨のために、ロドリゴを密告したのだった。

キチジローは、身勝手さ、弱さ、意地きたなさ、みじめさ、そういう人間のありとあらゆる醜い側面を体現した存在として描かれているのだ。

ロドリゴのエゴイズム①

キチジローは、神も人も平気で裏切るエゴイスティックな存在として描かれている、と説明した。

では、信仰を固く守り続けるロドリゴはどうなのかというと、彼もまた彼なりのエゴイズムを持っている。

むしろ、ぼくは彼のエゴイズムのほうが大きな問題をはらんでいると思う。

まず、第一に、彼は「弱いキチジロー」を許すことができない。

なぜなら、神を裏切ったキチジローは、ロドリゴにとって絶対的な悪者だからだ。

キチジローがどんなに許しを乞うても、ロドリゴのうちに湧いてくるのは不快感である。

それだけでなく、泣け叫ぶキチジローをうちやっておくことに、ロドリゴは快感さえ覚える。

「パードレ、聞いてつかわさい。悪うござりました。仕様んなかことば致しました。番人衆。俺はキリシタンじゃ。牢にぶちこんでくれや」(中略)

今、雨の中で泣きわめいている男を放っておくことには、やはり一種の快感があった

このときのロドリゴの態度のうちには、弱い者をいたぶるような残酷さが見え隠れしている。

それは「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」という、キリスト教の在り方とは大きく反している。

ロドリゴのエゴイズム②

つぎに、ロドリゴの虚栄心やプライドについてだ。

彼には、キリスト教を日本に広める使命がある。

そして、カトリック教会の司祭としてのプライドもある。

ロドリゴが踏み絵を拒み続けたのも、その使命感とプライドが大きく影響したといえるだろう。

また、ロドリゴには自分の苦難をイエスの苦難になぞらえるようなおこがましさがあり、どこか悲劇のヒーロー的な自己陶酔さえ垣間みえる。

もちろん、それはロドリゴの神への信仰があるからこそだろう。

神による魂の救済を信じているロドリゴは、死を恐れない。

苦難にも耐えられるし、拷問にも耐えられる。

むしろ、苦難こそがロドリゴの信仰を駆りたてていると言っても良い。

うん、ロドリゴにとっては、それでいい。

ただ、『沈黙』の鋭いところは、

「あなたの救済とひきかえに、無関係な人たちが死んでいくことを、あなたはどう思うの?」

と鋭く問うてくるところなのだ。

ロドリゴが、自分の信仰と虚栄心と自尊心にしがみつづける限り、村人たちは拷問の果てに殺されていく。

自分自身の信仰が、他者を傷つけていく。

そういう例は、現代においても枚挙にいとまがない。

宗教がはらんでいる危険を、遠藤周作はするどく見抜いている。

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考察:「沈黙の意味」

神はなぜ助けてくれないのか

さて、タイトル『沈黙』に注目して、いくつか思うところを書きたい。

あらためて繰り返すが、『沈黙』にはこんな意味が込められている。

  • 「信者が祈っているのに、なぜ神は黙ったままなのか」
  • 「信者がこんなに苦しんでいるのに、なぜ神は助けてくれないのか」

そんなロドリゴの思いは、「神は本当にいるのか」という、信仰の危機にまで近づいていく。

【 困惑 → 疑念 → 信仰の危機 】

このロドリゴの内面の描写が、遠藤周作はほんとうにうまい

沈黙とセミの声

そのうまさを感じさせるのは、作中にちりばめられている、「セミの声」だ

意識しなければ、簡単に見落としてしまう描写なのだが、「セミ」はいたるところに登場してくる。

そしてその登場場面というのが、ロドリゴが神への疑いを抱く直前なのだ。

林のほうで急に、セミがしゃがれた声で鳴いていましたあたりは静かでした

このシーンの直後、ロドリゴの内面がこうつづられていく。

(しかし、万一……もちろん、万一の話しだが)

胸のふかい一部分で別の声がその時ささやきました。

万一神がいなかったならば……

こうして、神の存在を疑いはじめるロドリゴ

1度疑い出すと、その疑念はとめどなくロドリゴの内から湧きでてきてしまう。

  • セミのやかましさは、かえって辺りの静寂を際だてる。
  • 辺りの静寂は、神の沈黙を際だてる。
  • 神の沈黙は、ロドリゴの信仰を揺さぶる。

こういう遠藤周作の筆致はほんとうに見事だと思う。

なお、ロドリゴの棄教を決意させたのも、村人達の「うめき声」であったのも、決して偶然ではない。

騒がしさこそが、静寂と、沈黙とを際だてているのだ

「沈黙」は「静寂」じゃない

さて、いまほど「静寂」ということばを使った。

あえて確認するが、この作品のタイトルは『沈黙』である。

『静寂』ではなく『沈黙』なのである。

この作品は、2016年にハリウッドで映画化されている。

そのタイトルは『サイレンス』だった。

ぼくは、このタイトルに、どこかひっかかりを感じた。

そして、そのひっかかりのありかを探ってみると、なんとこの作品の本質的なところに行き当たるのである。

『沈黙』の英訳は「サイレンス」しかないのだろう。

だけど、この2つ言葉には翻訳しきれない違いがある。

どちらかといえば、「サイレンス」は「静けさ」という状況を表す言葉だ。

もの音1つしない、そういう客観的事実を表現する、形容詞的な言葉だといってもいい。

では、一方の「沈黙」とはどんな言葉なのか

それは、「沈黙する」という動詞的性格を持つ言葉だ。

もっといえば、「沈黙する」主体と、「沈黙する」意志とが前提となっている言葉だ。

ここに『沈黙』という作品の本質がある。

「沈黙」は単なる「静寂」などではない。

「沈黙」には主語があって、その思いがあるということだ。

では、その主語はだれか。

言うまでもなく、神である。

では、その思いとは何か。

その「神の思い」を考えることで、『沈黙』で、遠藤周作が描いたものがはっきりと見えてくるのだ。

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考察:「遠藤周作のキリスト観」

ロドリゴの棄教の場面

さて、「沈黙する神の思い」とは、一体どんなものなのか。

それを考える上で重要なのは、ロドリゴが踏み絵を踏むシーンである。

少し長いが、大事な所なので、じっくりと読んで見てほしい。

司祭は足をあげた。足に鈍い思い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最もきよらかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が1番よく知っている。踏むがいい。私はお前達に踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」

こうして司祭が踏み絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いていた。

父のような神

この神の語りに、遠藤周作のキリスト教理解がとてもよく表れている。

実は、この遠藤周作のキリスト観、西洋諸国で大きな反響を呼んだ。

おまえのキリスト教理解は間違っている!

こういった声も少なからず上がったという。

なぜなら、それまでのキリスト教理解では、

「信じるものは救われる」

という、シンプルかつ、原理的なものだったからだ。

踏み絵を踏んだロドリゴは、神を裏切った者であり、神を捨てた者である。

当然、神の復活の日、最後の審判で彼の地獄行きが決定してしまうはずだ。

「信仰を守り抜いた者は救う、信仰を守り抜けなかったものは救わない」

それは、ちょうど、

「いい子になるならウチにいていい、悪い子はウチから出て行け!」

と激しく叱責する父のようだ。

だから、伝統的なキリスト教は「父性的」なんて言われることがある。

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母のような神

ところが、遠藤周作が描いたのは、「神を捨ててしまったもの」をも救おうとする神の姿である。

この神は、自分を裏切らざるを得なかったものを理解し、その悲しみに寄り添おうとしている。

どんなに、弱くて、惨めで、身勝手でも、この神は人間を捨てようとしない

それは、ちょうど、

「どんなに悪い子であっても、わたしの子であることには変わらない」

と、やさしく受け止める母のようだ。

だから、遠藤周作の描いたキリスト観は「母性的」だと言われている。

絶対に、人間を捨てようとしない神。

絶対的な母性で人間に寄り添う神。

遠藤周作は、そんな神を「人生の同伴者」と呼び、多くの作品の中で何度も何度も登場させている。

そんな「同伴者」としての神をよく表している一節を引いておく。

『沈黙』の中で描かれている、神の声だ。

「お前が苦しんでいるとき、私もそばで苦しんでいる。最後までお前のそばに私はいる」

「沈黙」とは、弱い者を悲しんでいる神の「声なき声」であると言えるだろう。

神は「沈黙」しているのではない、神は弱き者と共に悲しんでいるのだ、というわけだ。

弱いものこそ救う神

さて、ここで改めて、あの卑怯者キチジローに登場してもらおう。

自己保身のため、平気で神を裏切り、ロドリゴを売り渡した男だ。

キチジローは、弱く、卑怯で、身勝手で、みじめで、とにかく人間のあらゆる「醜さ」を体現した存在だった。

その姿というのは、まるで聖書に登場する「イスカリオテのユダ」さながらである。

「ユダ」とは、銀貨と引き換えに、イエスを売り渡した「裏切り」の代名詞ともいえる男だ。

あのダヴィンチの『最後の晩餐』で、イエスの左隣で銀貨を握りしめている男がいるが、あれがユダだ。

彼は、キリストを裏切ったあとで、その罪を悔いて自ら首をくくって死んでいる。

キチジロー = ユダ

それを意識させる描写が、『沈黙』の中に何度も登場する。

今、雨の中で泣きわめいている男(キチジロー)を放っておくことには、やはり一種の快感があった。

キリストは祈りを唱えてもユダが地の畑で首を吊った時、ユダのために祈られただろうか。聖書にそんなことは書いてなかったし、たとえ書いてあったとしても今の自分には素直にそんな気持ちにはなれそうもなかった。

キリストは、自分を裏切ったユダをも救ったのか、あるいは見捨てたのか。

聖書によると、キリストはユダの裏切りを知り こう言ったという。

「去れ、行きて汝のなすことをなせ」

その言葉を、ユダに対する死刑宣告ととるか、ユダに対する許しととるか。

これまでも様々な議論を生んできた。

ただ、遠藤周作ならばきっと、

「ユダは許された」

と答えるだろうと、ぼくは思う。

遠藤周作のキリスト観は、

人間は弱いからこそ神に愛されるのであり、人間は弱いからこそ救われるという、母性的なものだからだ。

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考察:「日本にキリスト教は根ざすのか」

日本人に「キリスト教」は理解できるか

そもそも、なぜ遠藤周作は「母性的なキリスト観」を提示しなければならなかったか。

それは、遠藤周作自身、旧来の「父性的なキリスト観」を受け入れることができなかったからだ。

記事の冒頭で、遠藤周作自身、「着せられたダブダブの洋服」に居心地の悪さを感じていたことを紹介した。

その居心地の悪さの最大の原因は、

「神と人間との1対1の関係」とか、「神との契約による救済」とかいった、

「父性的なキリスト観」にあったと考えられる。

「神との1対1の契約」という考えは、日本人である遠藤周作には、どうしても理解できなかったのだろう。

だからこそ、「ダブダブの洋服」を日本人にぴったりの「和風にしたて直す」作業が必要だったのだ。

偉大な宣教師フェレイラが棄教したワケ

「日本人にキリスト教は理解できない」

そういう問題意識も『沈黙』の中で、ばっちりと表れている。

それが強烈に描かれているのは、ロドリゴと、彼の師であるフェレイラとの議論だ。

この議論は、圧巻で、『沈黙』の中ではもっともスリリングな箇所ともいえる。

その議論の内容を見る前に、フェレイラについて簡単に紹介しておこう。

  • カトリック教会の超偉大な司祭
  • 長年にわたって布教に携わったレジェンドオブジェレンド
  • 凄まじい信仰心と、不屈の精神とを持っている
  • 神学の知識も圧倒的でズバ抜けている
  • 布教のため33年間日本に滞在していた

と、イエズス会の中でも全幅の信頼を集めていたフェレイラ。

ロドリゴにとっても憧れの師であった。

が、そんなフェレイラ、なんと棄教してしまったのだ

ロドリゴはにわかに信じられない。

「何かの間違いではないか」

「事実だとすれば、それはなぜか」

それを確かめるべく、ロドリゴは日本にやってきたのだった。

そして、ロドリゴは、フェレイラが棄教したワケを知ることになる。

フェレイラが棄教した理由。

それこそが、

「どうせ、日本人になんてキリスト教は理解できない」

というものだった。

日本はすべてを腐らせる沼地

ロドリゴがフェレイラに再会したのは、とある寺。

役人に引かれて現れたフェレイラは、黒い和服に身を包み、まるで家畜にように従順だった。

1つ、2つと久闊を語り合うロドリゴとフェイレイラ。

次第に、日本人への布教の話に及んでいく。

そこで、フェレイラの口から「日本でキリスト教は根を下ろさない」という言葉が飛び出る。

フェレイラはこう続ける。

この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地にキリスト教という苗を植えてしまった

そう主張するフェレイラの根拠は以下の通り。

  •  日本のキリシタンたちが信じているのは、神ではない
  •  そもそも日本人には、人間を超えた「存在」を理解できない
  •  日本人は、キリスト教をまったく別物に変化させて理解している

フェレイラは一語一語に力を込めてこういう。

「日本人は今日まで、神の概念を持たなかったし、これからも持てないだろう」

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仏教もキリスト教も自分流に

フェレイラのこの主張。

日本人のぼくたちには、どう聞こえるだろう。

ここで、日本人の宗教事情について確認したい。

  • 年末年始に神社にお参りに行き、受験合格や交通安全や無病息災を祈る。
  • 8月になれば、お寺へお参りに行き、お経をあげて先祖を供養する。
  • 12月になれば、家族でクリスマスを楽しむし、結婚式はチャペルであげるかもしれない。
  • そんな日本人の多くは、「宗教は何ですか?」と問われて、こう答える。
  • 「無宗教です」

とはいえだ。

とはいえ、実態として日本人の多くは死んだら仏式で葬式をあげているわけで、そう考えれば、多くの日本人は仏教徒に近いといえそうだ。

では、いったいどれだけの人が、仏法を意識して葬式に臨むだろうか。

どれだけの人が、悟りとか救済とか、意識したことがあるだろうか。

そもそも仏教は外来の宗教だ。

インド → 中国 → 韓国 → 日本という風に、6世紀ごろ日本にやってきたとされている。

だけど、現代のぼくたちに身近な仏教というのは、インドで生まれた原始仏教とは全く別物なのだ。

お釈迦様は、

「お盆になったら先祖が帰ってくるから、お墓にお経を読んで供養しなさい」

だなんて、一言も言っていない。

鎌倉時代、民衆に仏教を広めた、日蓮、道元、法然、親鸞、ああいう人たちだって、

「大切な人が亡くなったら葬式をあげて、お墓を作ってお経を読みなさい」

だなんて、一言もいっていない。

じゃあ、誰が言い出したのか。

別に、誰が言い出した、という感じでもない。

そう、誰が言い出したわけでもなく、日本人は自然と、時間をかけて、仏教を自分たち流に変化させてきたのだ

その結果、もともと外来の仏教は、いまや全くの別物となって、ぼくたち日本人の生活に溶け込んでいる。

それは、もはや意識に上らないレベルだ。

「わたしは無宗教です」

日本人の多くが、そう言えてしまうのは、それだけ「仏教」の異質性が薄められている証拠なのだ。

さて、日本にキリスト教がやって来たのは、1549年。

『沈黙』は1640年ころが舞台だと思われる。

その間、約100年。

日本人は、仏教同様にキリスト教もまったく別物に変化させて受容していったわけだ。

自分たちに異質なものを分解しながら、ズブズブと飲み込むように、吸収していく。

それが日本人であり、日本という国なのだ。

そのことを、フェレイラは、遠藤周作は「日本は沼地だ」と看破したのだった。

そしてこう結論した。

キリスト教は日本に根をはれない、と。

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考察:「遠藤周作の宗教観」

日本の原始宗教とは

では、ぼくたち日本人の「日本流」とは、具体的にどんな姿なのか。

それを考えるためには、仏教伝来以前の日本人の宗教体系を確認する必要があるだろう。

読者もご存知のとおり、日本には「八百万の神」という概念がある。

この世界中には、沢山の神様が存在していて、ぼくたち人間のように暮らしているというのだ。

たとえば、花に、たとえば、木に、風に、水に、彼らはあらゆる所にやどっている。

『古事記』なんかを読むと分かるのだが、彼らは笑ったり、泣いたり、怒ったり、嫉妬したりと、豊かな感情がある。

神と人間との間には隔たりがない

したがって、万物を作ったのも神ではない

なぜかこの世界は自然に存在していて、世界には初めもなく終わりもない

万物はそこから、ムクムクと生成しては、消滅していく

これが、『古事記』で書かれた世界観だ。

「絶対的な創造神がいて、人間を支配している」という、一神教的な世界観とは真逆の世界観なのだ。

「こら、ご飯をのこすな! 1粒1粒には神様が3人いてな……」

と、ばあちゃんにしかられたり、

「こら、むやみに虫を殺すな! 一寸の虫にも5分の魂があってな……」

と、じいちゃんにしかられたり、

いづれにしても、今もぼくたちの内面に残っているのは、この世界に序列をつけない平等な世界観といえる。

神も、人間も、動物も、植物も、すべてが平等に存在している世界観だ。

では、この世界観の、一体どこに宗教性があるというのだろうか。

全てを包み込む大いなる命

ここで、フェレイラの言葉を引いてみたい。

この国のものたちが、あの頃、信じた者は我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い間しらず、日本人がキリスト教徒になったと思い込んでいた」

「聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も、日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日とはほとんど似た発音だった」

日本人は太陽を拝む、つまり、日本人の信仰の対象は「大日」だったというのだ。

ここでいう「大日」とは、密教で言うところの「大日如来」とはイコールではない。

むしろ、「太陽」といったほうが適切で、「太陽」とは、この世界を成り立たせている原理の象徴だと思われる。

「わるいことをすれば、おてんとう様がちゃんと見てるんだよ」

と、言うように、日本人には太陽を特別なものとして崇めるところがある。

繰り返すが太陽とは、この世界を成り立たせている原理の象徴のようなもので、神も、人も、動物も、植物も、万物はその原理によって、生成と消滅を繰り返している。。

遠藤周作は、そのような世界の原理を「全てを包み込む大いなる命」と呼んでいる。

それは神のように輪郭のあるものではなくて、もっと曖昧模糊としたものなのだ。

遠藤周作にとって「宗教」とは

遠藤周作が指摘した日本人の宗教観をまとめるとこうなる。

  • この世界は創造神によって作られたのではない
  • この世界には、万物をあらしめる原理のようなものがある
  • その原理とは、キリスト教の神とは全くの別物といえる

その原理のもとで、神も、人も、自然も全てが平等に存在している

さらに、『沈黙』で描かれている大きな2つの主題をあげるとこうなる。

  •  母性的なキリスト観(弱い者でもゆるす絶対的な愛)
  •  日本人の宗教観  (すべてのものを包み込む原理)

この2つの主題を統合することで、遠藤周作が「宗教」をどのように考えていたかが見えてくる。

それは、

すべての存在を無条件に包み込む、大いなる命への信仰、である。

『沈黙』で描かれたのは、ちっぽけな人間を許す世界であり、ちっぽけな人間を迎え入れてくれる世界であった。

繰り返すが、これが遠藤周作のキリスト観である。

実は、遠藤周作は、その後の創作を続ける中で、このキリスト観をもっと広く押し広げていく。

キリスト教という閉じられた世界をこじ開けて、宗教一般へと議論を展開していくのだ。

その議論の結実が、遠藤周作の集大成ともいえる『深い河』だといえる。

そこでは、遠藤周作にとって「宗教」とは何か、が書かれている。

そこで書かれた世界こそが、全てを包み込む大いなる生命なのだ。

まるで遠藤周作は、「死後人々はその生命に帰っていけるのだ」と言っているようなのだ。

大人も、子どもも、善人も、悪人も、その人の現在過去未来問わず、あらゆる存在が帰って行ける場所がある。

まさに、無条件の救済の世界だ。

最後の最後まで、人間を見捨てることなく受け止めてくれる世界だ。

それはちょうど、文庫版『沈黙』の装丁のように、黒雲から漏れる微かな陽光のような、絶望の中にもわずかに人々を照らし続けている光

遠藤周作とは、そういう救済の可能性を、その人生をかけて模索し続けた作家なのだ。

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宗教はたった1つ

遠藤文学の集大成ともいえる名作『深い河』

ここでも、全てを包み込む大いなる生命が書かれている、と説明した。

この頃の遠藤周作は、彼のエッセイで繰り返しこう述べている。

「大いなる生命、それを神と呼ぶのに抵抗があるなら、たとえば、ニンジンとかタマネギと呼んでもいい」

つまり、キリスト教とか仏教とか、そういう特定の宗教の文脈は不要だというのだ。

キリスト教徒だろうが、仏教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、ヒンズー教徒だろうが、無宗教の人だろうが、すべての人が帰っていくところは、たった1つであり、宗教の別なんていうのは、そこへ帰って行くまでの道筋の違いなんだと、遠藤周作は言っている。

遠藤周作にとって宗教とは、決して閉じられた世界なんかではなく、すべての人に開かれている世界なのだ。

宗教による争いは、自分たちの世界のみが正しいと思い込む、その独善的な態度に根ざしている。

だけど、遠藤周作は言う。

宗教に優劣なんてつけられないんだよ。自分たちが正しいと言いあって争うなんて、それは宗教なんかじゃないんだよ」

遠藤周作は、彼の文学で繰り返しそのことを述べていると思う。

もし、世界中の人々がその地平に立ち並ぶことができれば、宗教に由来する争いはきっとなくなるだろう。

最後になるが、ぼくが遠藤周作の文学から学んだこと、それを述べて記事を締めくくりたい。

ぼくが学んだこと、それは、

宗教は奪うものじゃなく、与えるものでなければならない

ということだ。

教義のため、信仰のために「死ね」なんて、そんなもの、宗教なんかじゃない。

【 参考記事 解説・考察「宗教とは何か」―宗教と哲学の違い、共通点を徹底解説― 】

以上で解説は終わりです。最後まで読んでくださりありがとうございました。

映画「沈黙」—サイレンス—

映画『沈黙-サイレンス-』本予告

映画 「沈黙 —サイレンス—」は原作に忠実で、アメリカ人が作った映画とは思えないほどの完成度。

それもそのはずで、スコセッシ監督は、初めて『沈黙』を読んでから28年構想を練ったという。

記事でも紹介した「音」に関してなのだが、実はこの映画、意識的にBGMを排除している。

ロドリゴの体感した静寂をよりリアルに再現しようという監督の意図があるのだろう。

『沈黙』の世界観を完璧に再現しているのだが、最後の最後に、スコセッシ監督の解釈が強く表れている

これを、どう評価するかは見る人によってそれぞれだろう。

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「遠藤周作」の他作品

最後に、記事の中でも触れた遠藤周作のキリスト観や宗教観がよくわかる、オススメの本をいくつか紹介したい。

『深い河』

遠藤周作の晩年の作品にして、遠藤文学の集大成とも言える傑作。

「すべてを包み込む大いなる生命」という彼の宗教観が描かれている作品。

日本を代表する、第一級の宗教文学と言える。

【考察記事 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー

『海と毒薬』

遠藤周作の代表作の1つ。

九州大学病院の日本人医師による、米軍捕虜に対する生体解剖を扱った本作。

神を持たない日本人にとっての「罪の意識」や「倫理」とはなにかを問いかけた作品。

「日本人は、神の概念を持たなかった」というフェレイラの言葉にも通じる作品。

【考察記事 書評・考察『海と毒薬』(遠藤周作)ータイトルの意味は・日本人とは何かー

『侍』

設定としては、もっとも『沈黙』に近い作品。

藩主の命令でローマへ行き、洗礼を受けキリシタンになった「侍」

彼が故国へ帰ったとき、日本ではキリシタン禁制をとり、鎖国となったていた。

そして、「侍」に待っていたのは、あまりに理不尽な結末だった。

「人生の同伴者」としてのキリストを描いた作品。

最後のシーンがとても印象的。

『イエスの生涯』『キリストの誕生』

そもそも、イエスってどんな人?

キリストって、イエスと違うの?

聖書には何がかいてあるの?

という、キリスト教の大事な部分がよくわからないという人に超おすすめ。

聖書を読むのは正直とても大変なのだが、こちらの2冊は文学的なアプローチで基本的なところが理解できる。

なにより、遠藤周作のキリスト教理解がよくわかる作品だ。

2冊一緒に読むことをおオススメする。

コメント

  1. より:

    芥川龍之介の小説「神神の微笑」(1922年)で、「沼地」とほぼ同じような形で、日本には「造り変える力」があると語られている部分があります。
    私はこちらのブログを読んで、初めて「沈黙」という作品の内容を知りましたが、発表年度から考えても、遠藤周作先生は「神神の微笑」の内容をご存知だった可能性が高いのでは、と思いました。
    また、全てを許し受け入れる母性的な神、というのは、親鸞の悪人正機説が思い起こされました。

    以下は、こちらのプログを拝見した後の、キリスト教に関しての個人的な見解です。
    (私自身はキリスト教徒ではなく、特定の宗教の信者でもありません。世界史や宗教美術に興味があり、聖書関連や宗教についての入門的な本を含め、興味の趣くまま乱読しています。)

    元々、キリスト前の一神教はかなり厳格な「父性的」なもので、そのアンチテーゼ的に「母性的」な部分を含むキリストが出てきて、キリスト教となった。
    ただし、キリストの死後、宗教(カトリック)として確立されていく中で、キリスト教は「父性」に揺り戻しが起こっていく。
    今度はそのアンチテーゼ的、あるいは補完的に、キリスト教の範囲内で、「聖母マリア崇拝」が自然発生的に広がっていった。
    それゆえに、プロテスタントではなく(女性蔑視とも言われる)カトリックで「聖母マリア崇敬」があるのも、偶然ではなく、必然だと考えられる。

    蛇足ではありますが…
    親鸞は、変性男子という形ですが、女人往生を初めて教義としています。
    妻帯も公に可としています。
    こちらのブログを拝見し、つれづれに思いを巡らせていて、浄土真宗とプロテスタントの成り立ちは、共通するものがあることに気付きました。

    遠藤先生は、「神神の微笑」はもちろん、色々と他の宗教のこともご存知の上で執筆されたのだろうと推測できる、とても深い内容の作品のようで、ぜひ「沈黙」を読んで(あるいは映画を観て)みようと思います。
    作品を知るきっかけを下さり、ありがとうございました。

    • ken より:

      コメントありがとうございます。
      とても興味深い内容を、丁寧にコメントしてくださって、とっても嬉しいです。
      僕も思いつくままに、返信してみようと思います。

      >全てを許し受け入れる母性的な神、というのは、親鸞の悪人正機説が思い起こされました。

      実際、遠藤周作も「悪人正機」と「キリスト教」との共通点について、多くのエッセイの中で触れています。
      そして、僕が『沈黙』に興味をもったのも、そんなエッセイを読んだことがきっかけでした。
      「強い罪意識を持つものが救済されていく世界」
      まちがいなく、浄土真宗もキリスト教にも、そうした世界観が根底にあると思います。

      >元々、キリスト前の一神教はかなり厳格な「父性的」なもので、そのアンチテーゼ的に「母性的」な部分を含むキリストが出てきて、キリスト教となった。
      ただし、キリストの死後、宗教(カトリック)として確立されていく中で、キリスト教は「父性」に揺り戻しが起こっていく。
      今度はそのアンチテーゼ的、あるいは補完的に、キリスト教の範囲内で、「聖母マリア崇拝」が自然発生的に広がっていった。

      なるほど。とすれば、キリスト教の本質は、どちらかといえば「母性的」ということができそうですね。
      僕もキリスト教徒ではないので勝手なことは言えないのですが、「カトリック」はやはり権威的で、そうしたイデオロギーは宗教の本質とズレるような気がします( 少なくとも、僕が求める宗教ではありません )。
      もちろん、カトリックには深淵な教義と救済観があるのでしょうし、これ以上はカトリックの人に怒られてしまいそうなので、あくまでもこの辺は僕の勝手な直感だと思っていただければと思います。

      >親鸞は、変性男子という形ですが、女人往生を初めて教義としています。
      妻帯も公に可としています。

      「変成男子」については、現代の僕たちから見れば、以前として差別的な救済観だと言わざるを得ませんが、それでも「超越者の下での平等」を説いた点では、当時としてはとても意義あるものだったと思っています。その救済観は「神の下での平等」を説くキリスト教のそれと共通点していると言えるでしょう。

      また、親鸞の「妻帯」はややもすると「生臭坊主」のそしりを受けることが多いですが、だけど、そこには「どうあがいても煩悩を捨て切れない自分」という親鸞の強烈な無力感と罪意識があることを見逃してはならないと思います。沈黙で描かれた「ロドリゴの苦悩」も、親鸞の苦悩と通底する部分だと思います。

      >浄土真宗とプロテスタントの成り立ちは、共通するものがある

      これについても、僕も同意です。
      阿弥陀如来による救済を説く親鸞には、「どんなに努力しても戒律を守れない自分」という罪意識があったわけですが、実はこれ、十二使徒のパウロも全く同じなのです。
      彼はもともと敬虔なユダヤ教徒で、キリスト教に対しても批判的な姿勢を貫いていました。
      だけど「どんなに努力しても戒律を守れない自分」というものを強く意識して、そこでキリスト教への回心をしたと言われています。
      それは、親鸞の信仰にいたるプロセスと、ほとんど同一です。
      自分自身の「罪意識や内省」を そのまま「信仰と救済」へと転化するのが「浄土真宗」と「キリスト教」だとすれば、やはり両者の起源は同じだといってよいでしょう。

      最後に、
      >遠藤周作先生は「神神の微笑」の内容をご存知だった可能性が高いのでは、と思いました。

      管見の及ぶ限り、遠藤周作が著作の中で「神神の微笑」について触れている箇所はなかったと思います。
      ですが、もちろん僕の読み落としや単純な物忘れがあるかもしれませんし、記述がなかったからといって「影響を受けなかった」と断言することはできません。
      それに、芥川も晩年はキリスト教に接近した訳ですし、そう考えれば遠藤周作が芥川に関心を持っていたとしてもおかしくはないですよね。

      —―遠藤と芥川の関係―—

      とても興味深いテーマだと思います。僕もぜひ「神神の微笑」を読んでみようと思います。

      以上です、乱文を大変失礼しました。
      千さんの指摘がとても興味深かったので、僕もいろいろと考えさせられましたし、こうしたコメントを頂けるのは、ブロガー冥利につきます笑
      ぜひ、またお時間のあるときにふらーっと遊びにきて、気軽にコメントをしていただければと思います!

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