解説・考察『一億三千万人のための歎異抄』(高橋源一郎)—魅力と特徴を考察・レビュー

宗教
このページには広告が含まれています。
このページには広告が含まれています。
スポンサーリンク

解説「本書の魅力や特徴」について

『歎異抄』は鎌倉時代後期に書かれた、日本の仏教書である。

作者は浄土真宗の開祖 親鸞……の、弟子の唯円。

「お師匠様は、かつて、こんなことをおっしゃっていました」

と、親鸞の教えを、唯円の視点で記した一冊である。

……と、改まったこんな説明は、実際のところ不要だと思う。

なぜなら、いまや歎異抄は、仏教徒でなくても多くの日本人の知る書物であるし、ひとたび本屋にいけば、多くの解説書や現代語訳を目にすることができるからだ。

本書『一億三千万人のための歎異抄』(高橋源一郎 著)も、そんな現代語訳の中の1つである。

ただ、これまでの現代語訳と異なるのは、大きく次の2点だと僕は思う。

  1. 極めて平易な文体である点
  2. 訳者が文学者である点

1については、本当に読みやすい。

歎異抄の原典の中には、それなりに仏教用語や難解な漢語が多用されており、仏教や古典に通じていない読者が通読することは結構むずかしい。

そんな歎異抄を、まるで中学生の独白のように(これはいい意味で)やさしく、誰にでも理解できるような文体で訳出している。

この「誰にでも理解できる」という点において、「一億三千万人のための」という冠が付されているのだろう。(ただし本質的な意味は別にある。それについては後述したい)

次に2についてだが、現代語訳の多くが専門家や仏教学者によるものである中、やはり文学者による現代語訳はとても新鮮であり、読みながら新しい発見がある。

さらに、本書の最大の魅力は、現代語訳の後に続く、高橋源一郎による「解説」というか、「所感」というか、とにかく『歎異抄』について語っているパートである。

ここに、文学者ならではの歎異抄解釈があり、本書だけが持つ個性があると思う。

「歎異抄の解説書・現代語訳は、何冊か読んだことありますよ」って人でも、この最後のパートを読むためだけに、本書を手に取る価値はあると思う。

もちろん、「歎異抄を読むのは初めてです」って人にとっても、とてもオススメできる。

スポンサーリンク

考察「タイトルの意味」について

本書のタイトルの冠には「一億三千万人のための」といった文言が付されている。

それについて、さきほど僕は「“誰もが理解できる”といった意味だ」と述べた。

だけど、実は、それは全く本質的じゃない。

なぜなら、訳者の高橋源一郎は、本書を通じて、

「たった一人の“私”と『歎異抄』の出会い」

を終止語っているからだ。

たった一人の“私”が、『歎異抄』という書物に出会う……

もっといえば、たった一人の“私”が阿弥陀仏や念仏と出会う……

こうした構図が、宗教の本質だと高橋は言う。(……し、僕も常々思っている)

そして、このことはなにより『歎異抄』で親鸞自身が語っていることでもある。

弥陀の五業劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。『歎異抄』後序より

いうまでもなく、阿弥陀如来は、すべての衆生を救うために願を起こした仏であり、そういう意味では、阿弥陀如来による救済は「すべての人のため」ということができる。

にもかかわらず、ここで親鸞は、

「阿弥陀如来の救済は、結局、おれのためのものだったのだ」

といったことを述べているわけだ。

繰り返すが、宗教の本質とはここにある

つまり、”私”にとっての“主観的な真実”こそが大切なのであり、あえて言ってしまえば「すべての人に通用する」とか「客観的なまともさ」とかは、宗教において全く本質ではない。

そのことを踏まえれば、「一億三千万人のため」という言葉の意味が見えてくるだろう。

「一億三千万人に理解しやすい」とか「一億三千万人に通用する」という意味だけでは、そもそもの親鸞の実感や、高橋源一郎の執筆の思いをまったく無視していることになってしまう。

だから「一億三千万人のため」に込められた意味を厳密に言語化すれば、

「一億三千万人の“たったひとりの私”のため」

ということになるのだろう。

本書を手に取った誰かが、

「ここに書かれているのは、俺のためのものなのだ!」

とか、もっといえば、

「親鸞の言葉は、阿弥陀如来の救済は、他でもない俺のためのものだったんだ!」

と、実感することができれば、その時はじめて、その人は『歎異抄』に出会うことができたという事ができるのである。

本書は、きっと、その第一歩になりうる。いや、なってほしい。

そんな高橋源一郎の思いが「一億三千万人のための」という言葉には表れているのだろう。

スポンサーリンク

感想「阿弥陀如来からの贈り物」

実は僕自身、浄土真宗の寺に生まれた人間である。

幼いころから、僕の近くには「シンランショウニン」と「ネンブツ」が常にあった。

だけど、シンランが何者なのか、ネンブツがなんなのか、本当に全く、僕にはさっぱり分からなかった。

そして、9歳の夏に、訳も分からずに「トクド」をした。

世間的には、僕は仏教徒で、念仏を称える人間ということになったのである。

だけど、ずっと、大人になったいまでも、その事実に割り切れなさを感じてきた。

「自分にとって得度ってなんなのだ? 念仏に何の意味があるのだ?」

何度もそう問うてきたけど、結局いまだに答えはでていない。

だからこそ、何もわからない自分を京都に連れていき、何もわからないまま得度させた両親に、ずっと反発してきた。

さて、本書『一億三千万人のための歎異抄』には、そんな僕の思いを揺さぶるようなことが描かれている

それはキリスト教の「幼児洗礼」(幼子に親が一方的に洗礼を与えること)について触れた、次の言葉である。

キリスト教の信仰とはなにか。まず最初に神からの愛の一方的贈与があるのだ。まず愛なのだ。「幼児洗礼」とは、そんな神からの一方的贈与の純粋な形なのだ。見返りを一切期待しない純粋の贈与なのだ。

(中略)

そう、ネンブツがアミダからの一方的な贈りものであるように。それは「愛の一方的贈与」なのだから、受け取ることも拒否することも自由なのだ。(本書P172より)

ここを読んだとき、僕の目には自然と涙が浮かんだ。

僕は、自分が寺に生まれた意味、それをずっと問い続けて生きてきた。

親鸞も、得度も、念仏も、そんなものとは無縁の、普通の家に生まれたかったと何度も思って生きてきた。

だけど、こうして僕は『歎異抄』を忘れることができない。

気がつけば、親鸞や仏教に関する書籍に手が伸びるし、ふとした時に、念仏について考える僕がいる。

それは実は、とても不思議なことなんじゃないだろうか。

仏教には三帰依文という、有名な言葉がある。

その言葉の最後に、こんなものがある。

無上甚深微妙むじょうじんじんみみょうの法は、百千万劫ひゃくせんまんごうにも遭遇あいあうことかたし。

この一文は、

「仏教に出会うってことは、もはや奇跡とも呼べるくらい、めったにないことなのである」

そういう意味なのだけれど、その奇跡をもたらしてくれたのは、実は、阿弥陀如来の慈悲なのではないか。

僕はそんな風に思った。

繰り返すが、僕はずっと仏教を、親鸞を、阿弥陀如来を恨んで生きてきた。

できれば、そんなものとは無縁のまま生きたかった。

だけど、僕が寺に生まれたのも、念仏をしったのも、そういう境遇で生きてきたのも、実は阿弥陀如来の願いだったのではないか

阿弥陀如来が、僕を思ってのことだったのではないか。

そんな風に思わせてくれたのが、上述した、本書の一節だったのである。

うーん、言葉にすると、どこまでも安っぽく、嘘っぽくなってしまう。

だけど、言葉にするなら、そんなところである。

要するに、僕は本書を読んで、寺に生まれたことに、きっと意味はあるんじゃないかっていう、そんな予感を得られたのだ。

きっと、この感覚を、僕はまたすぐに忘れてしまうだろう。

忙しない生活に追われる中で、自分と阿弥陀如来の関係なんて、考える暇などない。

だけど、僕はこの感覚は、生活のどこかにちゃんと置いておきたい

残りの人生の中で、阿弥陀如来との関係を大切にしていきたい。

読後、余韻が残る今は、そんな風に思う僕がいる。

以上で『一億三千万人のための歎異抄』についての記事を終えます。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

おすすめの書籍

仏教を体系的に学ぶための3冊

今回の記事で、仏教について少しでも興味持った人が、体系的に勉強できるように3つの本を紹介したい。

次の3冊を読めば、

日本の仏教を学ぶ → 日本の宗教を学ぶ → 日本の思想を学ぶ

という風に、どんどんとマクロな視点を獲得できる。

もちろん、ベクトルを逆に向けて、

日本の思想を学ぶ → 日本の宗教を学ぶ → 日本の仏教を学ぶ

と、ミクロな視点へとスポットしていくのも良い。

『日本仏教史』(末木文美士)

この1冊を読めば、日本の仏教についてかなり専門的なところまで理解ができる

数多くある仏教の解説書の中で、もっとも信頼できる書だと思う。

1冊手元に置き、何度も何度も繰り返し読むことがオススメする。

『日本宗教史』(末木文美士)

日本の宗教の特徴は「シンクレティズム」の一言で片付けらてしまうことは多い。

「シンクレディズム」とは「習合」、ひらたく言えば「合体」ってなところか。

日本人の多くが「寺と神社の違い」を意外とわかっていない。

その理由は、この「シンクレティズム」にあるといっていい。

では、日本人にとって「宗教」とは一体何なのか

本書を読めば、そのことが分かるだろう。

そして、こうも思う。

日本人は決して無宗教ではない。

『日本思想史』(末木文美士)

中江兆民はこういった。

「日本には哲学がない」

その言葉の通り、日本の思想には西洋哲学のように体系化できる歴史はないように思える。

そんな複雑な日本思想を大胆にも体系化しようというのが本書のもくろみ

日本思想には全くと言っていいほど疎いぼくだったが、とても分かりやすく学ぶことができた。

とにかく種々雑多な日本思想を整理して、マクロな視点が得られるのはうれしい。

仏教を学ぶならオーディブル

 

宗教関連の書籍が聞き放題‼ /

 

今、急激にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。Audible(オーディブル)HP

Audibleを利用すれば、宗教関連の書籍が月額1500円で“聴き放題”

宗教以外にも、哲学や思想系の書籍も充実している。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: %EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%B9%B4%E4%BB%A3-%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%A1%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E8%B3%9E%E4%BD%9C%E5%93%81-2.png

それ以外にも純文学、エンタメ小説、海外文学、新書、ビジネス書、などなど、あらゆるジャンルの書籍が聴き放題の対象となっていて、その数なんと12万冊以上

これはオーディオブック業界でもトップクラスの品揃えで、対象の書籍はどんどん増え続けている。

今なら30日間の無料体験ができるので「実際Audibleって便利なのかな?」と興味を持っている方は、軽い気持ちで試すことができる。(しかも、退会も超簡単)

興味のある方は以下のHPよりチェックできるので ぜひどうぞ。

登録・退会も超簡単!

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました