「宗教」の“言語”とは
「新約聖書」に見られる言葉
ここまで「宗教とは何か」について考察をしてきたが、その中で、「宗教」の本質は「神秘体験」にある点を強調した。
改めて言うまでもないが、「神秘体験」とは極めて主観的な出来事である。
そうなるってくると、次のような疑問が生まれてくる。
結局、宗教ってのは「個人的」な営みなの?
宗教ってのは「個人」の中で完結する、閉じられた世界なの?
そんなことはない。
確かに「宗教」とは、個人的・主観的な「体験」が本質をつかさどってはいるが、それは「他者」に開かれた世界でもある。
『宗教とは何か』の著書、八木誠一はこういっている。
我々は何事か(これは何らかの意味で経験的事実である)を神秘として経験するとき、宗教言語を語るのである。(P160より)
つまり、「神秘体験」をしたものは、その主観的な「体験」を、他者に語り始めるというわけだ。
ここに「宗教」が「他者に開かれた世界」だ、といえる根拠がある。
だが、その“語り”を僕たちが聞くとき、そこには十分な注意が必要だ。
なぜなら、その“語り”とは、客観的事実を語ったものではないからである。
たとえば、新約聖書において、「パウロ」の次のような言葉がある。
「私にとっては生きることがキリストである」
どうだろう。
この言葉を仮に、客観的事実を語ったものとして解釈をしようとすると、途端に“デタラメ”で“怪しい”いかにも“キナ臭い”言葉になってしまう。
聖書にはこの手の言葉が沢山ある。
「神は私たちの心の中で輝き、キリストの顔を照らし、それによって我々に神を知らしめた」
「神は君たちの中で働き、(君たちの)意欲と働きを成り立たせる」
繰り返すが、これらを「客観的事実」を語ったものとして解釈してはいけない。
これを「客観的な事実」として解釈してしまうところに、「宗教」に対する誤解が生まれるのだ、と八木は繰り返し本書で述べている。
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「記述言語」と「表現言語」とは
ここで、2つの“言語”について紹介したい。
それが「記述言語」と「表現言語」だ。
次々とややこしい言葉が出てくるなあ
と、困惑する方も多いと思う。
ただ、やっぱり、ここだけは絶対に外せないところなので、できるだけ分かりやすく端的に示したい。
まず、それぞれの定義について簡単に示す。
記述言語 …客観的な事実を示す言葉。主に「科学」で使用される言語。
表現言語 …主観的な体験を語る言葉。主に「文学」で使用される言語。
さらに八木の言葉を引用したい。
思い切り簡略化していえば「もの」を語るのは記述言語であり、( 中略 )「こころ」は表現言語に現れる。(P232より)
基本的に、僕たちの「体験」というのは、「記述言語」で語ることもできれば、「表現言語」で語ることもできる。
ただ、両者には「向き不向き」がある。
たとえば、あなたの頭上に、大きくまん丸な「お月様」が浮かんでいたとする。
それを「記述言語」で記せば
「夜空に満月がある」
となる。
いや、もっと科学的な説明を与えるとすれば、
「今夜は、月と太陽の黄経差が180度になっている」
となる。
この説明は誰にとっても通用する「客観的な事実」である。
それでは仮に、その満月を見たあなたは「名状しがたい感動」を催しているとしよう。
そんなとき、あなたは、その「主観的な体験」をどんな風に語るだろうか。
たとえば、
「でっぷりとした満月が、真っ黒なキャンバスにクレヨンで塗ったみたいな存在感で、まばゆい光を放っている。それを見た僕の胸には、まるで蝋燭の灯りがともったみたいな、ほの仄温かいものが兆した」
と、表現すれば、あなたが見た「満月」の美しさを表現できるだろうか。
素人の僕のつたない表現では分からないと思うので、試しに、古今東西の「文学」を読んでみてほしい。
そこには優れた「表現言語」で、満月をみた「感動」が語られている。
その究極として、日本には次のような和歌がある。
あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
これは明恵上人という人が読んだ歌だ。
一応解釈するとすれば、
明るいわあ、いやマジ明るいわあ、明るいわあ、マジめっちゃ明るいわあ、明るいわあ、お月様。
ということになる。
これぞまさしく「表現言語」の王様であるといっていいだろう。
明恵上人にとって「彼の感動体験」を表すのに最もふさわしいのが、この「和歌」という形式であって、そしてこの「あかあかや……」というものだったわけだ。
そして彼は間違いなく「直接経験」(明恵上人 = お月様)をしている。
その「感動」を和歌という「表現言語」で表しているのだ。
もしこれを、
「夜空に満月がある」
という「記述言語」で語ってしまっては、彼の「感動」の1ミリも語ることはできない。
なお、本書『宗教とは何か』では、松尾芭蕉の俳句に見られる宗教性についても論及されている。
閑さや岩にしみいる蝉の声
よくみればなずな花咲く垣根かな
有名なこの俳句もまた、芭蕉の「直接経験」を語ったものだという。
つまり、芭蕉の「表現言語」ということだ。
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・
「宗教」は「表現言語」で語られる
では、宗教はどんな「言語」で語られるのか。
ここで改めて、この章の冒頭で示した八木の言葉をもう一度引用する。
我々は何事か(これは何らかの意味で経験的事実である)を神秘として経験するとき、宗教言語を語るのである。(P160より」
この宗教言語が何なのかと言えば、まさしく「表現言語」なのだと八木は言う。
そりゃそうだろう。
だって「宗教」ってのは、そもそも「神秘体験」が基礎にあるわけで、オットーが明らかにしたように、そこには“名状しがたい感動”があるのだ。
それは「記述言語」では絶対に語りえない。
彼(彼女)の「神秘体験」を語るには、「表現言語」でなければ不可能なのだ。
私にとっては生きることがキリストである。「新約聖書より」
パウロのこの言葉だって、彼の神秘体験を語る「表現言語」なのだ。
この言葉には、彼の“言葉にしきれない”感動があらわれている。
パウロは別に「客観的事実」を語っているわけではないのだ。
その大前提を、まず僕たちは理解しなければならない。
少し長くなるが、大事なことなので、八木の次の言葉を読んで欲しい。
もともとこのような説話(聖書など)は、経験に反応する心を語るものであって、客観的な記述や報告ではない。だからこのような説話にみられる誇張や一面性は、語られる出来事がまさに神秘として経験され、神秘として語り伝えられていることを意味するのである。明らかな誇張から我々はまず、そこで出来事を神秘として経験する心を読み取るべきなのである。(P143より」
つまり、キリスト教の文脈に即して言えば、『聖書』を読むときは、そこから「神秘体験」をしたイエスなりパウロなり十二使徒なりの「感動」を読み取ろうとするべきだ、と八木は言っているわけだ。
八木は本書『宗教とは何か』で、繰り返しそのことを強調している。
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「宗教 = 怪しい」という誤解
世の中には、
「宗教なんてうさん臭い」
と感じている人は多い。
“イエスの復活”とか、絶対うそじゃん
“念仏を称えれば救われる”とか、そんなわけあるかい
この記事を読んでいる人は、きっと「宗教」に関心がある人だと思うので、ここまで露骨ではないと思うが、「宗教=怪しい」と感じている人は結構おおくいるものだ。
別に僕は彼らを批判しようとか、「宗教に目覚めろ」とか言いたいわけではない。
ここでは、なぜ彼らが「宗教はうさん臭い」と感じてしまうか。
その原因について、八木の『宗教とは何か』を頼りに解明しようと思う。
まず初めに結論を言おう。
彼らが「宗教 = あやしい」と感じてしまう原因、それは、
「宗教」を「記述言語」と思い込んでしまうから である。
たとえば『聖書』に書かれている“イエスの復活”
彼らはそれを“客観的事実”として、要するに「学術書」とか「科学の本」とか読むのと、まったく同じスタンスで読もうとしている。
ところが“イエスの復活”は「神秘体験」をした使徒たちの感動を示した「表現言語」なのだ。
それを「記述言語」として解釈しようとすることは、ちょうど「あかあかや……」の和歌を、「科学」として「学術書」として解釈しようとすることと、全く同じことなのだ。
ただ、一般の人がそう誤解してしまうのは無理ないことだと、僕は思う。
その認識を正してあげるために「宗教家」がいるのだから。
だけど、ここが厄介なところで、その「宗教家」こそが、こうした誤ったスタンスで宗教を語っているのである。
次に引く八木の言葉はとても重要だ。
これもやや長くなってしまうが、頑張って読んでみてほしい。
「神」について語る言葉は、まず理解と共感に訴えるべきもので、証明されるべきものではない。それなのに宗教言語をいきなり記述言語だと主張し、あるいは宗教言語をいきなり倫理として立てる、それが間違いのもとなのである。「神」をいきなり普通の意味での記述言語の実体詞だととる、この間違いを犯すとき、真実を語る言葉からたちまち怪しげな匂いが立ち昇ることになる。(P262より」
“神”を「実体詞」で語ることで「宗教 = あやしい」という誤解を生む。
「実体詞」とは、“犬”とか“イス”とか“人”とか、具体的・物質的実体があるものを表現する言葉のことだ。
もちろん“神”に実体などない。
それなのに、少なくない宗教家たちは、「神は存在する」という言葉を、「犬は存在する」という言葉と同じスタンスで語ろうとするし、ややもすると、それを“屁理屈”をこねて説得しにかかる。
これこそ、人々の「宗教 = あやしい」という思いを助長する原因なのである。
繰り返す。
宗教は「表現言語」である。
宗教は「体験」の「感動」を語るものなのだ。
その体験者が語る「感動」を共感的に理解しようとするとき、そこに「信仰」の芽が生まれる。
そして、もしあなたがその「体験」を追体験することができれば。
その「信仰」の強度は、まちがいなく確かなものとなっていく。
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・
「宗教」の違いは“語り方”の違い
世の中には、多くの宗教がある。
- キリスト教(信者20憶人)
- イスラム教(信者16憶人)
- 仏教(信者4憶人)
これらは世界三大宗教と言われている。
それらの中にも沢山の分派があったり、他にはヒンズー教やユダヤ教など、世界には本当に沢山の宗教がある。
そして、それらの全ては、何らかの「神秘体験」がベースにある。( ※「人をだましてやろう」とか「人から金をとってやろう」とか、私利私欲がベースにある新興宗教は「宗教」ではない。単なる「詐欺」であり「犯罪」でさえある )
たとえば、イスラム教の『コーラン』、キリスト教の『聖書』、仏教の各種『経典』
これらはその「神秘体験」を「表現言語」で語ったものだ。
しつこいけど「客観的事実」を語った「記述言語」ではない。
とすると、その3つに、本質的に大きな違はない。
八木は言う。
一般に宗教の違いは、どこで神秘を経験するかという違いであり、また同種の神秘の経験の場合でも、それを言語化する仕方が違えば宗教性は異なってくる。ここに宗教の個性がある。
宗教の違いは、個性の違いなのだ。
個性の違いに過ぎないのだ。
「俺たちがただしい」
「おまえらは間違っている」
歴史や世界を見渡せば、そういった宗教同士の争いが後を絶たない。
その根っこもまた、宗教を「記述言語」でとらえているからに他ならない。
要するに、彼らはみな自分たちの「客観的な正しさ」を躍起になって主張しあっているわけだ。
宗教の本質を見失っているのだ。
宗教とはそれぞれの「感動」を語る「表現言語」である。
当然、その語り方は様々だ。
そこに「宗教」の個性は生まれる。
宗教の違いというのは、あくまで「個性」の違いなのだ。
本質的には、全ての宗教は同じ。
ある1つの「神秘体験」を語っている。
それは、自分の内にある「超越」を自覚すること。
「超越」には、宗教の個性に応じて、様々な「語り」が与えられる。
神、アッラー、阿弥陀如来、大日如来、ブラフマン……
そして「神秘体験」にも、宗教の個性に応じて、様々な「語り」が与えられる。
キリストの復活(キリスト教)、アッラーの啓示(イスラム教)、極楽往生(浄土系仏教)、一即多(天台系仏教)、事事無碍(華厳系・禅系仏教)……
これらの前提をきちんと理解することで、「宗教」に対する寛容が成り立つのだと言える。
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この記事全体のまとめ
さて、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
「宗教とは何か」の解説・考察は以上となる。
説明があっちにいったり、こっちにいったりしてしまいで、きっと困惑してしまったと思う。
それでも、「宗教」に関する理解が、読む前と読んだ後とで少しでも変わったなら——「宗教」への“寛容”が少しでも芽生えたなら——僕としてはとっても嬉しい。
最後に、この記事の簡単なまとめを示して、記事を締めくくりたい。
「哲学」と「宗教」の共通点は?
どちらも、「言語以前」の世界を志向している。
そして、どちらも“自我”や“言語”の限界を示している。
「現代の哲学」が明らかにしたのは次のことだ。
言語や自我が「人間」と「世界」を切り離している。
一方「宗教」のベースには次のような世界観がある。。
言語や自我によって「真実」が見えなくなっている。
こんな風に、両者は「人間と世界の繋がりの喪失」を指摘しつつ、「言語以前の世界」について語っているのだといえる。
「哲学」と「宗教」の相違点は?
- 哲学は「言語以前の世界」を“認識する”こと。
- 宗教は「言語以前の世界」を“体験する”こと。
哲学は「言語以前の世界」を“認識”することを目的としているが、宗教はそのような“認識”に立ち「言語以前の世界」を“体験”あるいは“自覚”することを目的としている。
“認識”と“体験”という違い。
これが「哲学」と「宗教」の違いだといっていい。
「宗教」とは何か?
宗教とは、「言語以前の世界」を“体験”し、それを語ることである。
つまり「言語以前の世界」を体験することがベースとしてある。
「言語以前の世界」を体験したとき、人は「名状しがたい」感動を覚える。
その「感動」の語りが「宗教」となり、人々とも共有可能な体系となる。
キリスト教も、イスラム教も、仏教も、世界中の宗教は「神秘体験」の「感動」を語ったものだといえる。
「宗教」の言語とは何か?
「宗教」はすべて「表現言語」で語られる。
「表現言語」とは、「文学」のシーンで使用されることが多い。
だから、「聖書」や「コーラン」や「仏典」は、メタファーが多用された極めて詩的なものとなっている。
また、その「語られ方」の違いが、各宗教の「個性」となる。
宗教とは、本質的に一つなのだ。
また、「宗教言語」を「客観的な事実」として解釈してはいけない。
「宗教言語」=「客観的事実」として解釈したり、そう語ったりすることによって「宗教=あやしい」という誤解が生まれる。
「宗教」とは、第一に体験者の「主観的感動」を共感的に理解しようとすることから始まるのだ。
「信仰」もそこから始まる。
そして、自らが「神秘」を体験したとき、その「信仰」の強度も強くなる。
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・
オススメの本を紹介
最後の最後。
「宗教とは何か」を理解するうえでオススメの本を紹介したい。
『宗教とは何か』(八木誠一)
この記事の多くは、本書に大きく頼っている。
「哲学」と「宗教」の関係にはじまり、「宗教とは何か」の問いに迫る良書。
これ一冊を読めば、宗教についての「本質」を理解することができる。
『聖なるもの』(ルドルフ・オットー)
この記事でも少し触れたオットーの代表作。
宗教の核心には、非合理的なもの――名状しがたい「感動」体験がある。
それはある種の「聖なる」経験であり、オットーはその本質を「ヌミノーゼ」と名づける。
キリスト教神学だけでなく哲学や比較宗教学にもおおきな影響を与えた、20世紀を代表する宗教学の古典級の名著。
『我と汝』(マルティン・ブーバー)
“自我”と“世界”のつながりを取り戻すのが宗教だとすれば、“私”と“あなた”のつながりを取り戻すのもまた宗教だ。
ブーバーは20世紀を代表するユダヤ系の思想家だ。
彼は言う、
まことに、〈われ〉は、〈なんじ〉と出会うことによってはじめて、真の〈われ〉になるのである。
真実を生きるとは、隣にいる“あなた”との関係を回復することなのだ。
こちらも宗教学だけでなく、哲学や現代思想にも大きく影響を与えた、記念碑的な名著。
『意識と本質』(井筒俊彦)
井筒俊彦は、近年、一層注目を集めている日本を代表する思想家だ。
語学の天才とも言われ、約30以上もの言語を流暢に語れた。
そんな彼だからこそ、その思想の根っこにも「言語以前の世界」への志向がある。
この記事で中心に述べた「自我―自己直接体験」は、井筒俊彦の思想と大きく共通している。
瞠目の天才がしめす“真実の世界”に触れられる一冊。
「宗教とは何か」を知るうえでは大きな示唆を与えてくれる。
『深い河』(遠藤周作)
紹介する本の中では唯一の小説ということになる。
が『深い河』に書かれているのはまさしく「宗教」の本質といっていい。
遠藤周作は、その生涯をかけて「日本人にとって宗教とは何か」を問い続けた作家だ。
そんな彼の、宗教的到達点ともいえるのが、本書『深い河』
宗教は一つである。
そんな遠藤守作の晩年の宗教観があらわれている。
文学界だけでなく、宗教界や哲学界にも大きな衝撃を与え、今もな読み継がれている古典級の名著。
【 参考記事 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー】
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