はじめに「トラウマ文学の代表格」
―そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな―
多くの中学生に“軽いトラウマ”を与えたであろうこの言葉は、世界的文豪ヘルマン・ヘッセの短編『少年の日の思い出』の一節である。
私が本作を初めて読んだのは中学の国語の時間だった。
実は、私もこの言葉が軽くトラウマになったクチで、『少年の日の思い出』の内容なんてすっかり忘れてしまっても、なぜかこの言葉だけは、ずっと忘れることができなかった。
そして、大人になった今、
「そもそもあの話って、どういう話だったんだ?」
そう思って、あらためて作品を手に取ってみた。
そして本を閉じた私は、思わずうなってしまった。
大人になったいまだから分かる・・・・・・
人間に対する洞察と、主人公「僕」の心理描写が、とにかくすさまじいのだ。
「自分は中学生のころ、こんな本格的な文学を読んでいたのか……っていうか、今の中学生たちも国語の時間に『少年の日の思い出』を読んでいるのか?」
そう思って調べてみれば、なんと、今の中学生もバッチリ読んでいるではないか。
だけど、ここに書かれた「人間観」を、いったい今の中学生がどれだけ理解できるというのだろう。
ひょっとしたら、あの頃の私みたいに、すぐれた人間心理描写を理解することなく、「そうか、そうか攻撃」のえじきとなり、軽いトラウマをもよおしているだけなんじゃないだろうか。
そうした思いから、この記事を書くことを思い立った。
記事では、この作品の主題を明らかにしつつ、多くの人が感じるであろう疑問に答えていきたい。
ちょうど今、作品を読んでいるよって人も、
むかし読んだことがあるよって人も、
これから読もうとしているよって人も、
軽くトラウマだよって人も、
とにかく、この作品に興味がある人であれば楽しめる内容になっていると思うので、お時間のある方はぜひ最後までお付き合いください。
あらすじ
主題と疑問点を整理
まずは、この作品の主題についてまとめたい。
ざっと並べてもこれだけの主題があげられるが、これらを一言でまとめれば、
「人間の複雑な自意識」
ということになるだろう。
これらについては記事の中で詳しく解説をしていきたい。
また、多くの読者が持つ疑問点を整理すれば、次の通りになるだろう。
これらの疑問についても、記事の中で詳しく答えていこうと思う。
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解説①「クジャクヤママユって蛾じゃないの?」
本題に入る前に、たぶん多くの読者が持っている素朴な疑問、
「っていうか、クジャクヤママユ、良く見るとキモくね?」
にお答えしようと思う。
検索してみると分かるが、作中に登場するコムラサキもクジャクヤママユも、どう見たって「蝶」というよりも「蛾」である。
とすると、主人公「僕」は、こんなグロテスクな生き物に情熱を注ぎ、コレクションし、あげく盗み出し、ポケットに入れ、握りつぶしたということなのか。
「なんとおぞましい!」
そう身震いする人も多いと思うが、改めて強調しておきたいことは「この作品はドイツのお話である」ということだ。
実は、ドイツ人は、日本人のように「蝶」と「蛾」を区別してはいない。
どちらも「シュメッタリン」という言葉でひとくくりにして、特に「不快感」も抱いていないようなのだ。
日本人の場合は、
- 蝶=かわいらしい虫
- 蛾=おぞましい虫
と、両者を区別し、両者に対する感情も異なるわけだが、こうした事情は万国共通ではない。
だから、日本人の僕たちから見れば明らかな「蛾」であるクジャクヤママユでも、主人公「僕」にとっては魅力的なお宝に見えるというわけなのだ。
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解説②「エーミールへの感情とは」
エーミールへの憧れ
さて、本題に入ろう。
ここから『少年の日の思い出』にまつわる本格的な解説をしていこうと思う。
僕はエーミールに対して複雑で屈折した感情を抱いている。
その感情の根っこにあるもの、それは「憧れと憎しみ」だといっていい。
ここでエーミールのスペックをまとめると、次の通り。
こうしたスペックを持つエーミールを、僕は「模範少年」と表現している。
社会的な地位もあって、経済的にも恵まれて、しかも優れた蝶のコレクション技術も備わっている……
そんなエーミールに、僕は「憧れ」の気持ちを抱いているのである。
エーミールへの憎しみ
なるほど、僕はエーミールの境遇に憧れ、彼を羨ましいと思っている。
だけど、それと「憎しみ」という感情は、どう両立するのだろう。
――憧れと憎しみ――
一見すると矛盾した2つの感情だが、この2つは人間の心の中で問題なく両立するものなのだ。
それを理解するため、ここである重要な感情を持ち出そう。
それは「劣等感」(コンプレックス)である。
社会的、経済的に恵まれているエーミール。
一方の僕はといえば、両親からは幼稚な設備しか与えられていない。
僕の両親は、立派な道具なんかくれなかったから、僕は、自分の収集を、古いつぶれたボール紙にしまっておかなければならなかった。(本文より)
どうだろう、このチープで手作り感まんさいなコレクションキット……
僕はこうした境遇をエーミールと比較し、エーミールに対する劣等感をこじらせていく。
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アンビバレントな感情
そのプロセスは、例えばこんな感じだろう。
「いいなあ、アイツだけ恵まれていて」(羨望)
⇩
「おれもアイツみたいになれたらなあ」(憧れ)
⇩
「それに比べて、どうして俺はこんな境遇なんだろう」(不満)
⇩
「アイツだけズルい」(嫉妬)
⇩
「できれば、アイツに不幸になってほしい」(憎しみ)
こうした僕の心理を表したのが次の箇所である。
とにかく(エーミールは)あらゆる点で模範少年だった。そのため、僕は妬み、嘆賞しながら彼を憎んでいた。(本文より) ※( )内は引用者補筆
こんな風に、人間というのは、他者への「憧れ」が「憎しみ」に転じることがある。
日本語にも「愛憎」という言葉があるが、相手への「ポジティブな感情」は、簡単に「ネガティブな感情」に変わってしまうことはザラにある。(痴情のもつれが事件に発展することはめずらしくない)
「相反する感情が、心の中で共存すること」
これを「アンビバレンス」というが、まさに「僕」のエーミールへの感情というのは「憧れと憎しみ」というアンビバレントな感情なのである。
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解説③「僕は本当に反省しているのか」
蝶を盗むまでの心理プロセス
エーミールの蝶を盗んだ僕だが、彼は本当に反省しているのか。
まずはその結論を言うと、
「反省していない」
ということになる。
この章では、そのことについて解説をしていきたいと思う。
まず、この作品のクライマックスは、
「主人公『僕』がエーミールの蝶を盗んでから謝罪に至るまで」
なのだが、そこの心理描写こそ『少年の日の思い出』の最大の魅力だろう。
中でもとりわけ、「謝罪する前後の心理」が圧巻だと思うのだが、まずは、そこに至るまでの僕の心理についてまとめてみよう。
せめて例のちょうを見たい
⇩
(斑点だけ見えない)
⇩
せっかくだから斑点も見たい
⇩
(蝶を手に取る)
⇩
この蝶を手に入れたい
⇩
(蝶を盗む)
⇩
大きな満足感
こうしてみると、僕は初めから「蝶を盗もう」と決めていたわけじゃないことが分かるだろう。
蝶に対する欲望が段階的に膨らんでいき、最後はその欲望にあらがえず、衝動的に盗みをしてしまった、というのが実際のところである。
ここで注目したいのは、盗みをした時点で「僕」に罪悪感が全くないことだ。
あるのは「やった、クジャクヤママユを手に入れたぞ」という満足感だけだ。
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僕の良心と自己保身
ところが、この後で「女中」とすれ違ったことで、僕の“良心”が目を覚ますことになる。
ちょうを右手に隠して、僕は階段を下りた。そのときだ。下の方から誰かが僕の方に上がってくるのが聞こえた。その瞬間に、僕の良心は目覚めた。僕は、突然、自分は盗みをした、下劣なやつだということを悟った。(本文より)
これが僕の「良心の復活」のシーンだ。
この時、明らかに僕は「自分は下劣な奴だ」という自己嫌悪や罪悪感をもよおしているのが分かるのだが、次に続く一文で、僕の心理は途端に複雑になってしまう。
同時に、見つかりはしないか、という恐ろしい不安に襲われて、僕は、本能的に、獲物を隠していた手を上着のポケットに突っ込んだ。(本文より)
この時の僕は「盗みを誤魔化そう」と、とっさに蝶を隠しているのであり、それはつまり「自分の立場を守ろう」という意識の表れである。
つまり、僕は「罪悪感」を感じつつ、一方では「自己保身」に走っているわけだ。
さぁ、ややこしいことになった。
本当に「僕は下劣なヤツだ」と悟ったなら、でくわした女中に正直に白状して、エーミールにきちんと謝罪をするべきだと思うのだが、僕はそうせずに、とっさに蝶をポケットの中に隠して、なんとか自分の立場を守ろうとしているのである。
さて、僕の本心はどっち?
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僕の意識と無意識
この「罪悪感」と「自己保身」という2つの感情が、どのようにして「僕」の心の中で両立しているのだろう。
結論を言えば、こういうことになる。
- 「僕」の意識レベル…罪悪感
- 「僕」の無意識レベル…自己保身
つまり、意識的、理性的なレベルにおいて、僕は「自分は盗みをした下劣な奴だ!」と自分自身を責めているワケだが、一方の無意識レベルでは「この盗みをなんとか誤魔化さなくては」という思いが働いているのだ。
それが理由に、僕の自己保身はほとんど本能的、身体的なレベルで表れている。
僕は、本能的に、獲物を隠していた手を上着のポケットに突っ込んだ。(本文より)
上がってきた女中と、びくびくしながらすれ違ってから、僕は胸をどきどきさせ、額にあせをかき、おちつきを失い、自分自身におびえながら、家の入口に立ち止まった。(本文より)
こんな風に、頭では「悪いことをしてしまった!」と思いながらも、僕の体は「どうにか誤魔化さなくては」という反応をしているのだ。
僕の中の被害者意識
ここまで、僕は意識レベルでは「罪悪感」を持っているが、無意識レベルでは「自己保身」に走っていることを確認してきた。
その自己保身の部分は、しだいに「被害者意識」へと姿を変えていく。
「いやいや、“被害者”っていうか、あなた“加害者”ですよね?」
と、多くの人が感じると思うのだが、えてして人間というのは「被害者意識」というものを捨てられない生き物なのだ。
それが表れている場面を引用しよう。
「僕」はエーミールの蝶を盗んだことを母に告白する。
母はそんな「僕」に「誠意を尽くして謝りなさい」といったことを伝える。
それに対して、「僕」は次のように考える。
あの模範少年ではなく、他の友達だったら、すぐにそうする気になれただろう。彼が、僕の言うことをわかってくれないし、おそらく全然信じようともしないだろうということを、僕は前もってはっきり感じていた。(本文より)
これを読んで、こう思った人もいるだろう。
「え? “僕の言うこと”って、具体的になんのこと?」
さて、エーミールが分かってくれない「僕の言うこと」とは、一体なんだというのだろう。
それをまとめてみたのが次のものだ。
と、こんなところだろうが、つまり、すべては「自己弁護」なのである。
たしかに、僕が言っていることに嘘はないのだろう。
だけど被害者であるエーミールにとっては、そんな「僕の都合」なんてどうでもいいのだ。
エーミールにとって確かな事実は、
「大切にしていた蝶を盗まれたあげくに、修復できないくらいにつぶされてしまった」
なのだから、ある意味で僕はエーミールに何を言われたって仕方がないわけだ。
というよりも、厳しい批難とか叱責とか罵詈雑言とか、そういう全てを引き受けようとする思いが、本当の意味での「罪悪感」なのではないだろうか。
とすれば、やはり、僕の心の内にはぬぐい難い「自己保身」があると言わざるを得ないだろう。
そして、その「自己保身」は、もはや「被害者意識」へと姿を変えているのだ。
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・
僕は”反省”していない
「僕」の被害者意識が最も表れているのが、エーミールへの謝罪の場面だ。
案の定、エーミールは「僕の都合」を理解する姿勢を1ミリも見せることはなく、ついにあの決め台詞「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」を僕に吐き捨てるワケだが、その後の「僕」の反応が興味深い。
その瞬間、僕は、すんでのところであいつの喉笛にとびかかるところだった。もうどうにもしようがなかった。僕は悪漢だということに決まってしまい、エーミールは、まるで世界のおきてを代表でもするかのように、冷然と、正義を盾に、あなどるように僕の前にたっていた。(本文より)
ここでツッコミたいポイントは大きく2つである。
「真の被害者(エーミール)に対して“あいつ”呼ばわりかよ!」
「“僕は悪漢だということに決まってしまい”ってどの口が言うんだよ!」
一つ目のポイントについては、「大人になった僕は今……」の章でで詳しくふれたい。
2つ目のポイントについては、もうバッチリ「僕」の被害者意識が出てしまっている。
つまりこの時の僕は、
「僕は(本当は悪漢なんかじゃないんだけど)悪漢だということに決まってしまい」と言っているのであり、これは明らかに先の「僕は下劣な人間だと悟った」という意識とかけ離れたものである。
ということで、結論。
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解説④「エーミールの言葉の残酷さ」
エーミールの批評的な態度
多くの中学生にトラウマを与えた(と思われる)言葉、
「そうか、そうか、つまり君はそういうやつなんだな」
これは僕が謝罪したときの、エーミールの最初の一言である。
この後、僕とエーミールの一連のやり取りが描かれていくわけだが、その中で僕が失ってしまったものがある。
それは「自らの尊さ」である。
さて、これを聞いても「?」だと思うので、もう少し詳しく説明しよう。
まず「そうか、そうか、つまり君は……」という言葉の本質を理解するうえで思い出してほしいのは、エーミールの批評的な態度である。
以前、僕がエーミールにコムラサキを見せに行ったとき、それを「専門家らしくそれを鑑定し」た、あの時の態度である。
エーミールの「そうか、そうか…」は僕をじっと見つめながら静かに発話されたものであり、まさに彼らしい批判的な態度が表れているといっていい。
つまり、この時のエーミールは、「僕」の人格や存在意義を鑑定したうえで
「君はそんなやつなんだな」(盗みをするようなくだらない人間なんだな)
と一蹴しているのである。
エーミールによる”完全否定”
エーミールによって人格を否定された「僕」だったが、この後、「僕」はなんとかして「自分の尊さ」を取り戻すようにエーミールにすがりつく。
僕は、彼に、僕のおもちゃをみんなやる、と言った。それでも、彼は冷淡に構え、依然 僕をただ軽蔑的に見つめていたので、僕は、自分のちょうの収集を全部やる、と言った。(本文より)
さあ、すごいことになってきた。
というのも、僕にとって「蝶のコレクション」がどんなものだったか思い出してほしい。
周囲が止めるのを振り切って、ご飯を食べることも忘れ、一日中外に出て集めた、僕の「生活そのもの」といっていいもの、それが「蝶のコレクション」なのである。
これは大袈裟ではなく「蝶のコレクション」とは「今の僕の全て」なのだ。
僕は、それをエーミールにやろうと言っているわけだ。
ところが、エーミールはそんな僕の提案をも一蹴してしまう。
「結構だよ。僕は、君の集めたやつはもう知っている。そのうえ、今日また、君がちょうをどんなに取り扱っているか、ということを見ることができたさ」(本文より)
この発言は、僕にとってはまさに「存在そのもの」を否定する最後の打撃となった。
僕はエーミールから「おまえはくだらん人間だ」ということを突きつけられたうえ「おまえが大切にしてきたものもくだらん」と否定をされた。
それは「お前の生活も、おまえの情熱も、お前の価値観も、全部が全部くだらん」という意味を持つ、とんでもなく残酷な一言なのである。
次の瞬間、「僕」の理性がふっとび、エーミールの喉笛にとびかかりそうになったのも、僕が完膚なきまでに「自らの尊さ」を破壊されたからにほかならない。
エーミールの言葉の真意
エーミールへのあこがれがあるからこそ、僕にとって彼の言葉は、決して無視することのできない重みがあるわけだ。
しかも、エーミールは僕を怒鳴ったり、ののしったりもしない。
まったく「僕」を相手にしようともしないのだ。
あるのは、ただの軽蔑と無関心だけ。
「そうか、そうか、つまり君はそんな下らん人間なんだな。まぁ、僕にとって、そんなことどうでもいいんだけどね、君になんて1ミリも興味ないし」
多くの中学生の記憶に残ったエーミールの言葉には、こんなにも残酷な意味が込められていたのだ。
そりゃ、トラウマにもなるって。
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解説⑤「自分の蝶をつぶした理由」
まずは結論から
この『少年の日の思い出』最大の謎は「どうして僕は自分のコレクションをつぶしたの?」というものだろう。
これについては明確な答えはないわけだが、私なりの解釈をここで紹介したい。
まず、結論を言えば「自分自身を守るため」ということになる。
おそらく、多くの人が「せめてもの償いのため」とか「不愉快な記憶を捨てるため」とか、そんなことを考えたのではないだろうか。
だけど「僕」の心理は、そんなシンプルなものではない。
エーミールから存在を全否定された「僕」は、自分自身を守るため、蝶をつぶすしかなかったのである。
自分を否定する=自分を守ること
とはいえ、ここまで読んでいただければ、「自分を守るためにコレクションをつぶした」という理屈も少しだけ飲み込めるのではないかと思う。
「僕」は自分の全てだった「蝶のコレクション」を、エーミールから「そんなもの結構」と一蹴された。
それはまさに、自らの存在を全否定されたも同然だった。
「自分はくだらない存在だ」
そうした「存在の無意味さ」を回復するために、「僕」は自ら蝶をつぶさずにはいられなかったわけだが、実はこれと似たようなことを、多くの人は日常的にやっている。
たとえば、あなたがテストの点数で「0点」を取ってしまったとしよう。
その事実が、周囲に知られるところとなってしまい、ある同級生から、こう言われてしまう。
「え、0点? だっさ! ってか、あたま悪ッ!」
この時、あなたは自分のプライドを守るため、どんな行動にでるだろうか。
体調不良とか勉強不足とかで言い訳するだろうか。
それとも、同級生の顔面に一発くらわすだろうか。
それらも一つの方法だ。
だけど、自分を守るためのもう一つの方法がある。
それは「自虐」である。
つまり、自分で自分を否定することだ。
「そうなんだよー。俺ってほんと頭わるいんだよな。そんな自分に嫌気がさしちゃうよー」
こんな風に、自分で自分を否定することで、守れるプライドというものがある。
つまり、
「自分は自分のダメなところをきちんと理解している」
そういう態度をとることで、他者からの批難をうすめ、結果的に自分を守ろうとすることができるのだ。
「僕は僕のダメな所をちゃんと知っている」
こう考えることで、「正しい自分」とか「カッコいい自分」とかいったものを、きちんと守ることができるのである。
蝶をつぶす=自分を守ること
以上の理屈を踏まえて、「僕」が自らのコレクションをつぶした経緯について整理しよう。
エーミールの残酷な言葉
⇩
コレクションを否定される
⇩
僕の人格・存在が否定される
⇩
なんとか自分自身を守りたい
⇩
自らのコレクションをつぶす
(自分で自分を否定)
⇩
結果的に自分自身を守ることができる
模範少年のエーミールは「僕」のコレクションを値踏みし、そして全否定した。
それは僕にとって、自らの存在を否定されるようなものだった。
そこで僕が自分を守るために取った行動、それが「自ら蝶をつぶす」ことだった。
「こんなコレクション、本当は最初っからどうでも良かったんだ」
「こんなコレクション、僕にとって大事なものじゃないんだ」
「こんなコレクション、エーミールに馬鹿にされたってへっちゃらだ」
こんな風に僕は、真夜中の一室で自分に言い聞かせながら、一つ一つ蝶を指で潰していったのだ。
繰り返しになるが、そうすることで、自らのプライドや尊さを、なんとか守ることができるからだ。
『少年の日の思い出』のラストシーンは、一見するととても不可解なものであり、多くの読者は「僕が蝶をつぶした理由」について疑問を持ったはずだ。
「せめてもの償いのため」
「つらい思い出を捨てるため」
そうしたものも一つの解答かもしれない。
だけど、本当の理由はもっともっと深刻で、
「エーミールに徹底的に否定された『自らの存在意義』を、なんとか自分で取り戻そうとするため」
これが、このラストシーンの真意なのではないだろか。
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解説⑥「大人になった僕は今……」
大人の僕は”反省”しているのか
この記事では、僕の「罪悪感」と「自己保身」、「被害者意識」、そして「蝶をつぶした理由」について解説をしてきた。
最後に
「じゃあ、今の、大人になった僕は、少年時代をどうとらえているの?」
という点について答えて、記事を締めくくりたい。
結論を言えば、
「大人になった僕も、ちっとも反省していない」
ということになるだろう。
お忘れの人も多いと思うが、この『少年の日の思い出』という作品は、ある「客」の回想という形式をとっている。
つまり、物語のほとんどが「客による語り」なのである。
そこで、作品の冒頭、客が語りだす場面に注目してみる。
すると、まぁ横柄なのだ、客の態度が。
まず、手に取った蝶のコレクションに対して不快感をにじませ「もう、結構」と言い放つ。
その後で、うっすらと笑みを浮かべ、巻きたばこを求め「悪く思わないでくれたまえ」とくる。(“くれたまえ”って何様?)
そして「自分は思い出を汚した」だの「恥ずかしいことだ」だの、口ではもっともらしいことを言うわけだが、その態度はというと、およそ加害者のものとは思えないほど横柄なのだ。
そして、最後に「ひとつ聞いてもらおう」と“思い出”を語り始めるのである。
「どうして、そうふてぶてしいのか!」
そう思わずにいられないのだが、これが少年「僕」の大人になった姿なのである。
もしも、かつての自分の行いに対して罪悪感を持っていたとすれば、こんな横柄な態度をとるはずがない。
煙草を片手に「ひとつ聞いてもらおう」だなんて、とてもじゃないが反省している人間の態度ではないではないか。
まちがいない。
大人になった「僕」は、かつての行いを反省してはいない。
それどころか、偉そうに自分の過去を(あたかも武勇伝かなにかみたいに)、これから語ろうというのだ。
そうした大前提に立って、改めて本編を読んでみれば、やはりこう思わざるを得ない。
「ぜったい、この人、反省していませんよね?」
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・
罪の告白か? 自己弁護か?
ここで、次の場面について、改めて想像してみてほしい。
それは、エーミールに「そうか、そうか」と言われた件を語る客の姿だ。
彼は、このとき、こんな言葉で語っているのだ。
その瞬間、僕は、すんでのところであいつの喉笛にとびかかるところだった。(本文より)
この「あいつ」という言葉を選んでいるのは、他でもない「客」(大人になった「僕」)なのである。
つまり、当時の被害者であるエーミールを、堂々と「あいつ」呼ばわりしているのだ。
となると、この『少年の日の思い出』全編を貫いているもの、それは、
被害者意識を捨てきれない「客」の自己弁護
と結論付けて良いのではないだろうか。
決して「罪の告白」だなんて純粋なものではない。
語り手の「客」は、「罪の告白」のような雰囲気を意識的にまとわせているけれど、その本質はどこからどこまで「自己弁護」なのである。
うーん、さすがである。
- 人間への鋭い洞察
- 卓越した心理描写
これこそが世界的文豪「ヘルマン・ヘッセ」の恐るべき筆力なのだろう。
以上、『少年の日の思い出』の解説を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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