はじめに「日本文学の黄金期」
あなたは「文豪」と聞いて、真っ先に誰の名前をあげるだろうか?
芥川龍之介?
谷崎潤一郎?
志賀直哉?
夏目漱石?
これらはみな、正真正銘、日本近代文学を代表する「文豪」であることは間違いない。
実は、いま名前をあげた4人は、どれも「反自然主義」の作家にカテゴライズされる。
そう、この反自然主義には、日本を代表する作家が本当に多く、まさにこの時代は言わば日本近代文学における「黄金時代」だといっていい。
この記事では、そんな「反自然主義」について分かりやすく、かつ丁寧に解説をしようと思う。
――そもそも反自然主義って、どういう立場なの?
――新理知派、耽美派、白樺派、余裕派…何が違うの?
――反自然主義の代表作家には誰がいるの?
多くの人々が持つ、こうした疑問に対して、丁寧に答えていくので、お時間のある方はぜひ最後までお付き合いください。
自然主義と反自然主義の違い
「自然主義」について整理
「反自然主義」とは何か。
超超超シンプルに答えるならば、
「自然主義に対するアンチ的立場」
ということになる。
ただ、これじゃあ全く意味不明なので、ここでどうしても「自然主義」について説明をしなければならない。
自然主義とは、およそ次のような文学潮流である。
明治時代から昭和初期といえば、
「自然主義にあらずんば、文学にあらず」
そんな空気が文壇に蔓延していた。
そんな自然主義の代表格は、島崎藤村や田山花袋といった作家たちである。
彼らはとにかく、自分たちの生活や内面の「ありのまま」を文学にし、世間に暴露した。
そのために頻繁に採用された文学様式、それが「私小説」や「告白小説」である。
「私小説」や「告白小説」というのは、多くの場合、語り手が「私」であり、読めば「主人公=作者」というのが一目瞭然の小説だ。
自然主義の作家たちは、こうした小説の中で、自らの“暗部”や“恥部”をあけすけと告白をしていったのである。
その、暗部や恥部っていうのは、要するに「貧しい生活」や「みだらな性生活」や「変態的な性癖」のことである。
こんな感じなので、自然主義には独特の「自虐」や「自己憐憫」など、要するにとにかくジメジメした湿っぽさがあるのだ。
【 参考記事 「自然主義文学とは何か」をわかりやすく簡単に解説―ゾライズムとの違いを参考に― 】
反自然主義とは
反自然主義というのは、こうした自然主義への反発から始まった。
つまり、作家の生活や内面を暴露する点とか、私小説や告白小説といった様式とか、卑屈で自虐的な内容とか、そうしたものに反発した作家たちが、反自然主義の作家たちなのだ。
以上を踏まえて、反自然主義は次のようにまとめられる。
以上のように、反自然主義はひとまず定義できる。
とはいえ、一口に反自然主義といっても、実に様々な作家たちがいて、彼らは大きく4つのグループに分類されている。
こんなふうに反自然主義というのは4つのグループに分類され、しかも、自然主義に対する批判精神もグループ毎に異なっている。
以下では、それぞれのグループについて詳しく解説をしていく。
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新理知派とは
文学的特徴
新理知派の特徴は以下の通り。
「新理知派」という名の通り、このグループが目指したのは「理性」や「知性」によって小説を作り上げることだった。
この点において、「ありのまま」を描こうとする自然主義とは異なっている。
また、小説の手法についても自覚的で、様々な技巧を駆使して、芸術的に完成度の高い小説の感性を目指した。
そうしたことからも新理知派は、別名「新技巧派」と呼ばれている。
さて、こう聞くと、なんだか「新理知派って頭のいい連中なのかな?」といった印象を持たないだろうか。
そう、彼らはまさに、当時の知的エリート集団「東京帝国大学」の学生たちだったのだ。
芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、松岡譲……
彼らはみな東京帝国大学の学生たちで、『新思潮』という文学雑誌の同人だった。
そうしたことからも新理知派は、別名「新思潮派」と呼ばれている。
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オススメ作『羅生門』
ご存じ『羅生門』は、初期の芥川龍之介の作品であるが、この作品はまさに彼の「理知」や「技巧」が光る作品だといえる。
芥川が『羅生門』で描こうとしたもの、それは人間の「エゴイズム」である。
この「エゴイズム」を描くために、芥川が取った手法、それが「古典を題材にすること」だった。
しかしなぜ、芥川は、わざわざ古典なんかを題材にしたのだろうか。
それは、平安時代を舞台にしたほうが、「エゴイズム」を効果的に表現できると考えたからだった。
平安時代は、まさに天変地異の連続だった。
地震、津波、噴火、飢饉、疫病の流行……
当時の平均寿命というのは、30歳~40歳と言われていて、人々の生活は文字通り“死”と隣あわせだった。
実際に羅生門の近くにも、死体がゴロゴロ転がっていたといわれている。
芥川が古典を題材にしたのは、こうした「極限状況」を利用することだった。
つまり、極限状況で人間の心理はどのように変化をするのか、人間はどのような行動をとってしまうのか、芥川はそれを小説にしたかったのである。
こうして描かれた『羅生門』は、平安時代を舞台にしながらも、人間の「エゴイズム」という普遍的なテーマを表現することに成功している。
これぞ、芥川の「理知」と「技巧」が存分に発揮された、新理知派的な作品だといっていい。
【 参考記事 解説・考察『羅生門』―作者が伝えたかったことは? ラストの意味は?― 】
耽美派とは
文学的特徴
耽美派の特徴は以下の通り。
「耽美派」(美に耽る)という名前からも分かる通り、この派閥は、とにかく文学において「美」を至上の価値とした。
この点において、「生活をありのままに描けばよい」とする自然主義とは相反する文学理念を持っていることが分かるだろう。
代表作家として最初に挙げられるのが永井荷風だ。
荷風は慶應義塾大学の学生を中心とした『三田文学』を創刊し、そこを耽美派の創作の場とした。
荷風は、もともと西欧へのあこがれが強くあり、日本に「ゾライズム」(当時のフランス文学の最新文学)を紹介した作家でもある。
荷風の「西欧への憧れ」の背景には、日本の現状への深い絶望があった。
要するに、うわべだけで近代化していく自国に、危機感にも似た嫌悪感があった訳だ。
そんな荷風の代表作といえば、異国情緒に美を見出そうとした『あめりか物語』や『ふらんす物語』といった、西欧社会を舞台にした作品がある。
また、現代日本への絶望から、江戸情緒に美を見出そうとした『すみだ川』や『腕くらべ』といった、遊郭を舞台にした作品もある。
異国に美を見出すか、江戸に美を見出すか……
創作時期によってそのスタンスは異なっていたが、荷風は「不自然に近代化する日本」を強く嫌悪し、その反動として、「自分とは異なる世界」の中で美に耽った作家だった。
それから、耽美派といえば、なんといっても谷崎潤一郎を忘れてはいけない。
谷崎は、自然主義特有の「生活臭」や「自虐」に強く反発をし、「文学は美の追求であるべきだ!」という理念のもと、彼独自の美的世界を小説で描いていった。
谷崎といえば、知る人ぞ知る「変態的な作家」(注 文学的には誉め言葉)であり、彼の作品には道徳や社会通念をカンペキに無視した、過激でエロティックな作品が数多く存在している。
そんな彼の処女作は、24歳の頃に書いた『刺青』である。
ある彫り師が美しい女性の肌に「女郎蜘蛛」を彫っていく、という短い小説なのだが、その文章はぞっとするほど美しい。
これが24歳の筆かと、とても信じられないくらい、彼の筆は神がかっているのだ。
“言葉の芸術”とは、こういう作品のことを言うのだろう。
そして、その芸術的な文体で描かれるのは、魅惑的な「女」の姿と、その美しさに翻弄される「男」の姿である。
ここに自然主義に見られた「生活臭」は微塵もない。
あるのは、究極までに追及された「美」と「芸術」だといっていい。
こんな風に、反自然主義の中でもとりわけ「美」を徹底的に追及した連中というのがいて、彼らのことを「耽美派」(美に耽る連中の意)と位置付けているわけだ。
谷崎はその「耽美派」の極北である。
【 参考記事 【谷崎潤一郎の人物・人生・文学的特徴】のまとめ―反自然主義の代表作家― 】
オススメ作『悪魔』
ここでは、ちょっとニッチな作品で『悪魔』という作品を紹介したい。
そこには、「女性の鼻水に性的興奮を覚える」という、とんでもない男が登場するのだが、そうした変態男(注 文学的には誉め言葉)の所業を、官能的で甘美な文体で次のように描いている。
此れが鼻水の味なんだ。何だかむっとした生臭い匂いを舐めるようで、淡い、塩辛い味が、舌の先に残るばかりだ。しかし、不思議に辛辣な、怪しからぬ程面白い事を、おれは見つけ出したものだ。人間の歓楽世界の裏面に、こんな秘密な、奇妙な楽園が潜んでいるんだ。『悪魔』より
上のシーンは、そのハンカチの匂いを嗅いだあと、「犬のようにペロペロ舐め始めた」場面である。
谷崎が追及した「美」の世界とは、当時の社会通念をはみ出した非道徳的な世界だった。
それらは、恐怖や戦慄にも似た名状しがたい恍惚感を( 一部の人たちに )与えた。
そして、この作品のタイトル『悪魔』も手伝って、いつしか人々は谷崎の作品を評してこう呼ぶようになった。
「悪魔主義」
ということで、谷崎潤一郎は次のようにまとめられる。
- 反自然主義……これまでの自然主義を越えて、
- 耽美派……美や芸術をとことんまで追及して、
- 悪魔主義……世間が戦慄するほどの世界観を描いた。
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白樺派とは
文学的特徴
白樺派の特徴は以下の通り。
「白樺派」というのは、彼らが捜索の場とした雑誌『白樺』からくるネーミングだ。
このグループの最大の特徴は、メンバーのほとんどが学習院大学出身の「特権者階級」であることと、人間を肯定し賛美する「人道主義」を文学の理念に据えていたことだ。
ちなみに自然主義の作家たちというのは、基本的に「田舎から上京してきた一般庶民」が多く、経済苦を経験したものが少なくない。
そういうこともあって、彼らは「貧しい生活」とか「卑しい自分」とかを、あけすけと文学にしてきたわけだが、白樺派の連中というのは、基本的に彼らと真逆の性格を持っている。
経済的に恵まれているので、西洋に関する深い教養があるし、経済苦とは無縁の生活をしているので、基本的に「人生万歳! 人間万歳!」といった思想傾向がある。
だからこそ、彼らは「人道主義」という、良く言えば「人間愛に満ちた」悪く言えば「楽観的で能天気な」作品を残した。(ちなみに、彼らの「人道主義」はトルストイの文学からの影響が大きい)
とはいえ、白樺派の文学を読んだことがある人なら分かると思うのだが、実際、上記の文学の特徴は「武者小路実篤」の文学の特徴とほぼイコールである。
だから、自然主義作家らは武者小路実篤を批判こそするが、志賀直哉や有島武郎なんかは高く評価していたりする。
2人は武者小路実篤と、本質的に異なる作家なのである。
たとえば志賀直哉は、「自身の性欲」とか「父親との不和」とか自らの暗部をそれなりにだが作品化しているし、有島武郎に至っては「煩悶青年」よろしく強烈に苦悩した挙げ句に自殺をしている。
つまり、彼らは「白樺派」でありながら、自然主義的な傾向を持つ作家だったのだ。
だから、白樺派の人道主義というのは、主に武者小路の思想傾向であり、個人個人を見てみればそこまで「人間万歳」じゃなかったりする。
ちなみに彼らの温度差を整理すると、こんな風になるだろう。
オススメ作『友情』
武者小路の「人道主義」的な代表作といえば、なんといっても『友情』だろう。
これは男女の三角関係という、いってしまえば「文学によくあるテーマ」を扱った中編小説である。
たとえばこれが自然主義作家の手にかかれば、「痴情のもつれ」とか「恨みつらみ」とか「妬みひがみ」とか、とにかく「人間の暗部」が描かれることになるわけだが、武者小路の手にかかれば、男女の三角関係だって「めでたしめでたし、大団円のうちに幕」ということになる。
同じく「三角関係」を扱った小説には、夏目漱石の『こころ』があるが、『友情』はこれと比較して論じられることが多いようだ。
『こころ』の主人公が、恋愛と友情(あるいは理想)との間で苦悩していくのに対して、『友情』の主人公はスパッと友情を切り捨て、恋愛を選び取る。
『こころ』の主人公が深い苦悩と孤独から自ら命を絶つのに対して、『友情』の主人公は深く苦悩をすることもなければ、当然、自殺をすることもない。
こんな風に、武者小路の作品に「人間の暗部」は基本的に描かれないので、自然主義の作家たちから手ひどく批判された。(代表作「お目出たき人」をもじって、苦悩を知らない「おめでたい文学」などと皮肉られた)
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余裕派とは
文学的特徴
余裕派の特徴は以下の通り。
「余裕派」の定義はとても難しく、たぶん上記を読んでもイマイチぴんと来ないのではないだろうか。
もしも余裕派をシンプルに理解したいのなら、「余裕派 = 夏目漱石と森鴎外の2人」と思ってもらえればいい。
この2人の共通点は、深い教養があった点、人間社会を一歩引いて俯瞰していた点、文明に対する批判精神があった点などが挙げられるが、なんといっても、当時の文壇とほとんど接点がなく、独自の文学を追究していたという点が大切だろう。
つまり、余裕派というのは、文壇から距離をとっていたという点において、新理知派、耽美派、白樺派とは性格が異なるのだ。
「余裕派」というネーミングについても、
「あの2人、文壇に交わらないなんて、余裕あるよな~」
と、自然主義の連中から半ば嫌みのように言われていたこともあり、それが「余裕派」と呼ばれる由来だとする説もある。
要するに、「2人だけ別格」という考え方である。
その他にも、漱石も鴎外も「人間社会を大局的に眺め、余裕のある態度で批判した」ことから余裕派と呼ぶ、なんて説もあり、同様の理由で両者は「高踏派」と呼ばれることもある。(※ 高踏 = 浮世離れしていること )
いずれにしても、漱石も鴎外も文壇から距離をとり、自然主義に対して批判的だったことから、両者は「反自然主義」の中に入れられている。
とはいえ、実際2人には私小説的な作品(要するに自然主義的な作品)は数多くあるし、一方で、神秘的理想的な作品(要するにロマン主義的な作品)も数多くある。
漱石も鴎外も、「自然主義」とか「反自然主義」とかにとらわれず、達観した態度で多くのジャンルの小説を描いた「別格」の作家だったと理解してもらえればOKだ。
オススメ作『草枕』
ここでは漱石の『草枕』を紹介するが、先述した通り、漱石の作品には様々な毛色のものがある。
個人的には後期の『行人』とか『こころ』とか、人間の自意識を鋭く描いた作品がオススメなのだが、ここでは「余裕派」的な作品として、あえて『草枕』を紹介しようと思う。
『草枕』といえば、次の序文が有名だ。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
『草枕』より
ここからすでに「人間社会を大局的に批判する」という「余裕派」的な雰囲気がバンバン表れているわけだが、この場面は次のように続く。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
ここからも分かる通り、『草枕』というのは、漱石の「芸術論」としても読むことができる。
そして、この作品は全体的に、「醜い人間の内面」とか「貧しい生活の苦しみ」とか、そういったこととは無縁の、超然とした漱石の態度が表れている。
ということで、この作品は最初から最後まで「自然主義」とは全く異なる雰囲気をまとっており、しかも「人間」や「社会」や「芸術」などについてゆったりと語っているのだ。
こうした『草枕』の態度は、「低徊趣味」とか「非人情」と呼ばれている。
低徊趣味というのは、「余裕をもって世界を眺める態度」をいうし、非人情というのは「煩わしい世間から距離をとること」を言う。
こんなふうに、人間や社会から一定の距離を取り、超然とした態度で書きあげられた『草枕』は、まさに「余裕派」の代表的な作品だといっていいだろう。
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「反自然主義」のまとめ
ここまで反自然主義の定義と、4つのグループについて解説をしてきた。
最後に、この記事の内容をまとめると次の通りになる。
以上、反自然主義についての解説を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
日本文学を学びたい人へ
この記事にたどり着いた方の多くは、おそらく「日本文学」に興味がある方だと思う。
日本文学の歴史というのは結構複雑で、「〇〇主義」とか「〇〇派」とか、それらの関係をきちんと整理することが難しい。
そこでオススメしたいのが、日本文学者「ドナルド・キーン」の代表作『日本文学の歴史』シリーズだ。
日本文学史の流れはもちろん、各作家の生涯や文学観、代表作などを丁寧に解説してくれる。
解説の端々にドナルド・キーンの日本文学への深い愛情と鋭い洞察が光っていて、「日本文学とは何か」を深く理解することができる。
古代・中世編(全6巻)は奈良時代から安土桃山時代の文学を解説したもので、近世編(全2巻)は江戸時代の文学を解説したもので、近現代編(全9巻)は明治時代から戦後までの文学を解説したものだ。
本書を読めば、間違いなくその辺の文学部の学生よりも日本文学を語ることができるようになるし、文学を学びたい人であれば、ぜひ全巻手元に置いておきたい。
ちなみに、文学部出身の僕も「日本文学をもっと学びたい」と思い、このシリーズを大人買いしたクチだ。
この記事の多くも本書を参考にしていて、今でもドナルド・キーンの書籍からは多くのことを学ばせてもらっている。
「Audible」で近代文学が聴き放題
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対象のタイトルは非常に多く、日本近代文学の勘所は 問題なく押さえることができる。
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