はじめに「本格的な震災文学」
たくさんの人が亡くなる事件が起きると、必ず「文学」が生まれてきた。
関東大震災を扱った文学
原爆を扱った文学
そして、戦後文学
だけど、東日本大震災の後では、長らく本格的な文学は登場してこなかった。
ちなみに、過去の芥川賞受賞作で「東日本大震災」を扱った作品は次の2つ。
- 沼田真佑『影裏」(2017年)
- 石沢麻依『貝に続く場所にて』(2021年)
とはいえ、この2つの作品では『東本大震災』は、いわば“背景”となっていて、どちらも正面切って震災を扱った作品とは言いがたい。
そんな中、ついに震災を正面切って扱った本格的な純文学が生まれた。
2022年下半期の芥川賞受賞作『荒地の家族』である。
作者の佐藤厚志は、仙台出身で東日本大震災を経験している。
本作は、そんな彼の体験がベースとなっており、「震災」や「被災者のその後」が静謐な文体で印象的に描かれている。
この記事では、そんな『荒地の家族』についての解説や考察を行っていく。
また、記事の終わりでは、芥川賞作品を安く、効率的に読むサービスなんかを紹介しているので、そちらもぜひ参考にしていただきたい。
それでは、最後までお付き合いください。
登場人物(ネタバレあり)
祐治 …造園業を営む40歳の「ひとり親方」。28歳で震災を経験し、30歳の頃に妻「晴海」を亡くしている。36歳のころに「知加子」と再婚するも、38歳の頃に離婚、現在は母の「和子」と息子の「啓太」と3人暮らしをしている。
啓太 …小学校6年生。最近、父「祐治」に対して心理的な距離が生まれてきている。
晴海 …祐治の亡き妻。祐治と同い年。インフルエンザによる高熱で10年前に死去。
知加子 …祐治の再婚相手。祐治との子を18週目に流産する。精神的に不安定となり祐治とは離婚。現在は仙台のデパートで勤務している。ときおり訪れる祐治との面会を頑なに拒絶している。
明夫 …祐治の幼なじみ。群馬県の自動車工場で勤務していたが、現在は地元の中古車店で勤務する。災厄で妻「恵」と娘「玲奈」を亡くしている。ガンを患っており、余命いくばくもない。密漁に手を染め逮捕され、その後まもなく自殺する。
恵 …明夫の亡き妻。家庭を顧みない明夫に愛想を尽かし、実家に帰った後で災厄にあい死去。
玲奈 …明夫の亡き娘。恵とともに災厄にあい死去。
和子 …祐治の母。孫の啓太の世話をする。
孝 …祐治の父。食道がんで亡くなっている。
六郎 …明夫の父。祐治と明夫について良く話しをする。
河原木 …祐治の幼なじみ。祐治に仕事を紹介してくれる。祐治に知加子を紹介したのも彼。
野本 …祐治がかつて務めていた「西島造園」の専務。祐治に暴力を振るう。
高木 …祐治がかつて務めていた「西島造園」の先輩。
京介 …植木職人の見習いで祐治のもとで働く。生活や勤務態度に難があり解雇される。
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あらすじ(ネタバレあり)
考察①災厄とは何か
本作品の最大のモチーフはいうまでもなく「東日本大震災」だ。
震災そのものの描写は決して多くはないものの、そこには確かな臨場感やリアリティがある。
先に逃げ込んだ人が、逃げ遅れた人を窓から見下ろして「早く逃げれ、早く逃げれ」と叫んでいた。それはもちろんその人の無事を願ってのことだったが、一方でその必死さの中に、頼むから目の前で死なないでくれ、目の前で波にのまれないでくれとい思いも込められた悲痛な声だった。(単行本P81より)
こんな生々しい描写は、震災を経験したものでなければ決して書けない表現であり、読者に「震災」がどんなものであったかを印象的に語っている。
さて、そうした「震災」は作中で「災厄」という言葉で表現される。
そしてその「災厄」は、単なる「震災」の意味を超えて、もっと広がりのある意味で使われている。
それがうかがえる次の一文を引いてみよう。
怒ったり、悲しんだりしたところでどうにもならない災厄が耐えがたいほどに多すぎて、右にも左にもいけず、ただ立ち尽くすほかない日が続いた。(P88より)
ここで「災厄」は、いわば「生活を抑圧するあらゆる要因」といった意味で使われている。
そうした要因が「多すぎて」、祐治の心や生活を抑圧しているというのだ。
その要因をあえてここで具体化すれば、以下のものが挙げられる。
- 経済的な困窮
- 晴海の死
- 胎児の死
- 知加子との離婚
- 啓太の心の隔たり
これらは災厄の後に、いわば「連鎖反応」のように祐治に訪れたものであり、10年以上たった今でも祐治を苦しめ続ける要因である。
あえていうと、祐治は震災が直接の原因となり家族を失ったわけでもなければ、住む場所を失ったわけでもない。
失ったのは、独立後の生涯道具が詰まった倉庫と2トントラックである。
だけど、そうした経済的なダメージが間接的な原因となり、彼は妻を失い、再婚相手に逃げられ、息子とも疎遠となり、今もなお癒されない傷を抱えて生活にあえいでいるのだ。
「災厄」とは、決して地震や津波だけではないのである。
それらが個人にもたらした「生活の荒廃」や「心の破壊」もまた深刻な「災厄」なのだと、本書は語っているように思う。
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考察②復興とは何か
災厄は地震や津波にとどまらず、現在の祐治を苦しめ続ける様々な要因も含んでいる。
そして祐治は、どんなにもがいても、その苦しみから逃れられないでいる。
そんな祐治の苦しみは、「穴」の比喩でもって、次のように書かれる。
穴があった。どれだけ土をかぶせてもその穴は埋まらなかった。(中略)祐治は無駄と知りながらも土をかぶせ、穴を埋めようとした。それは無限に続くと思われた。(P88より)
震災はあらゆる形で祐治の生活に“穴”をあけた。
その穴を埋めようと祐治が必死に努力をしたとしても、祐治の生活は楽にならないし、祐治の心も晴れない。
このとき祐治はふと「復興」の意味を考える。
元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か、と祐治は思う。十年前か。二十年前か。一人ひとりの「元」はそれぞれ時代も場所も違い、一番平穏だった感情を取り戻したいと願う。(P32より)
震災以降、「復興」という言葉が盛んに人々の口から聞かれた。
しかし、そもそも復興とは、どうすれば完了するものなのだろうか。
たしかに、震災後10年という月日が流れ、ライフラインは機能を取り戻し、街には防潮堤が築かれ、道路が整備され、建物が建った。
傍からみれば、街の復興を大きく進んだように見えるかもしれない。
だけど、街がもと通りになることだけが、果たして「復興」なのだろうか、と本書は僕たちに問いかける。
なぜなら、震災に遭い、生き残った人々の生活や心は、元通りになってはいないからだ。
人の心がどうだったか、祐治は忘れそうになった。取り戻そうとしても、更地になった町が戻らないのと同じ、ただしい感情の動きが分からない。(P102より)
災厄は街を壊しただけでなく、人々の生活も、人々の心も壊したのだ、という当たり前の事実を、僕たちは忘れかけているのではないだろうか。
震災から10年が経ったいま、もしも震災は人々の意識から薄れつつあるとすれば、それは被災地の人々の「心の破壊」に目が届いていないからなのかもしれない。
本書『荒地の家族』で描かれているのは、いまだに生活を立て直せなかったり、癒えることのない心の傷を抱えていたりする、具体的な「個人」の姿である。
そうした「生活の荒廃」や「心の傷」が癒えないうちは真の復興はありえない、と本書は読者に訴えかけているように思う。
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考察③固有名が多いのはなぜか
本書『荒地の家族』を読めばわかるのだが、ほぼすべての登場人物に「固有名」が与えられている。
それは、この記事の「登場人物」の項目を見てもらえれば分かると思うのだが、ここに記載しきれなかった“ちょいキャラ”にも(近所の“富樫”や理容室店主の“工藤”といった具合に)ちゃんとした固有名が与えられている。
おそらく、ここにも作者の意図がある。
その意図とは「被災した“個人”の尊厳を回復させるため」である。
と、聞いてもピンとこないと思うので、もう少し詳しく説明してみよう。
震災が起こった当時を思い返せば、メディアでは頻繁に「被害者の数」がことさら喧伝されていた。
「死者は〇〇名、負傷者は〇〇名、行方不明者は〇〇名に上りました」といった具合にだ。
こうした報道は、確かにその震災のすさまじさを教えてくれる。
だけど、ここには「数」の持つ危うさというものがあって、ややもすれば、僕たちは震災の深刻さというものを、数の多さで測ってしまいかねない。
「死者〇〇名」という語り方だけでは、震災の実態というものを捉えることはできないのだ。
震災で被害に遭った人というのは、誰かの親であり、誰かの子であり、誰かの友人であり、誰かの恋人であり、つまり誰かにとって唯一無二の尊い「個人」である。
「一度の震災で2万人の人が亡くなった」という報道は、そうした事実を覆い隠してしまう危険がある。
本当の震災の姿とは、
「たった1人の尊い個人がなくなった出来事が2万回あった」
ということなのだ。
そして、本書が書こうとしたのもまた、「たった1人の尊い個人の死」なのだろう。
だからこそ、作中の個人には1人1人には「個有名」が与えられているのだろう。
なお、作中で例外的に匿名化されているのは、啓太の友人「Tくん」と担任の「女性教員」である。
これは「啓太に心を配れていない祐治の実情」というのを効果的に表現したものだと僕は考えている。
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考察④自死した明夫の心理
『荒地の家族』では、災厄によっていまだに苦しむ「個人」の姿が描かれている。
本書で描かれる最大の悲劇は、まちがいなく「明夫」の自死である。
災厄によって妻子を失い、仕事を失い、生活は荒廃し、身体を病魔にむしばまれ、犯罪に手を染め、そして最後は自ら命を絶った。
彼を苦しめたものとは何なのだろう。
もちろん、一言でまとめることなどできないが、「妻子を死なせた罪悪感」というのは間違いなく大きい。
それは「自分だけが生き残ってしまったことへの罪悪感」と言い換えてもいいだろう。
――なぜ俺が生き残ったのだろう――
――なぜ彼らを救えなかったのだろう――
――死ぬべきは俺の方ではなかったか――
生き残ったもののこうした心理は「サバイバーズ・ギルト」と呼ばれる。
戦後、こうした罪悪感に苦しみ自ら命を絶った人は少なくなかったという。
明夫もまた、こうした思いに苦しんでいた。
仕事もろくにできず、酒に逃げ、ガンを患い、犯罪に手をそめ、挙句逮捕までされ、それでも惨めに生きながらえている。
「死ぬべきは俺の方ではなかったか」
こうした思いが極限に達してしまい、ついに明夫は命をたったのだろう。
妻子を失くした明夫の苦悩は計り知れなかったはずだ。
作中ではっきり描かれてはいないが、明夫の感受性の強さを物語るシーンがある。
それは祐治と明夫が幼いころ、工事現場の女性の死に接した場面だ。
翌日、学校へいく途中で明夫に追いついた祐治は「あれはあの人だよな」と声をかけた。反応のない明夫にさらに「ぺしゃんこだ」と言うと、明夫は顔を真っ赤にして、「かわいそうだろ」と急に怒った。人が死んだという事実が祐治にはぴんとこなかった。一方、明夫は大きく心を揺さぶられているふうだった。(P31より)
明夫は幼いころから、人の死に感じ、悲しむことができる優しい感受性の持ち主だったのだ。
そんな彼だからこそ、生き残った後の罪悪感は計り知れないものだったと推測できる。
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考察⑤死者を見つめる祐治の心理
祐治もまた直接的ではないものの、震災の影響によって晴海や胎児を失くしている。
生き残ったことへの罪悪感にさいなまれているのは、祐治も同様なのだ。
ただ、祐治の場合は、そうした「罪悪感」から目を背けるため、あらゆる方法で「思考停止」をしようとしている。
身体を酷使したり、仕事に没頭したりするのをは、その一つの方法だ。
(鋏を)研いでいるうちに動作が意識を離れ、腕が機械のように自動で前後に動く。刃を玄関の光にかざす。水を振る。没頭する。時間が消える。(P54より)※( )内は引用者の補筆
頭の中に隙間ができると終わりである気がした。少しでも考える時間があると、自分が存在している理由が分からなくなりそうだった。立ち止まると足を払われそうでつい力んだ。(P87より)
「罪悪感」や「存在の無意味さ」に押しつぶされぬよう、身体を酷使して思考を停止する祐治であるが、とはいえ、そう簡単に自問自答をやめられるはずもない。
苦しむのは自業自得で晴海が死んだのも、知加子のお腹の赤子が死んだのもみんな自分のせいである気がした。(P64より)
そうであったかもしれない現在、今とは違う啓太、持ち得なかった家族の団欒、それらを夢想してみても詮無いが、晴海が死んで以来、知加子と再婚した後でさえ、寝入る前に考えない日は一日としてなかった。(P68より)
こうした自問自答の中で、祐治は常に苦しんでいる。
ただ、自問自答の中で、「死者」の存在を近くに感じることもまた事実だ。
祐治が晴海の「幽霊」を見てしまうのも、苦悩の中に晴海の存在を強く感じるからだ。
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考察⑥ラストシーンに込められた意味
作中で祐治は頻繁に「海」に足を運んでいる。
海は佑治に災厄を連想させるもののはずなのに、なぜ彼はそれでも海に足を運ぶのだろう。
それは「死者との対話をするため」であるということができる。
もっと分かりやすく言い換えれば、
「死者を忘れないため」ということになるだろう。
それを最も象徴する場面、それが作品のラストである。
自死した明夫と対話をするシーンだ。
明夫が仕込んだ毒が回りだした。体の隅々までいき渡った。頭がぐらぐらして、指先にしびれを感じる。おう、いいよ、俺が引き受けるよ。祐治は思った。俺も道連れにするか。首をくくるというやり方であっても、自分でけりをつけた。だが、お前なんかと心中はまっぴらだ。(P156より)
この場面は、暗く閉塞的な物語に、一点の光明のような救いを与えてくれている。
この時、祐治は死者との対話の中で、自分の使命のようなものを感じている。
祐治の使命とは、「死者を引き受けて生きること」だ。
祐治にそう感じさせたのは、明夫が残した「報い」という言葉だった。
「報い」というのは、自らの「罪」を自覚することであり、その「責任」を果たしていくことである。
「その責任とは、すべてを引き受けて生きていくことだ」
祐治は明夫との対話で、そう感じたのだと思う。
そして、この作品の最大のメッセージはここにある。
罪悪感、無力感、無能感、存在の無意味さ、無常観、そして諦念……
『荒地の家族』全体には、そうした重苦しい「人生の悲しみ」が底流している。
ただ、祐治が最後に感じた責任、「それでも生きていく」というメッセージが、物語に希望を与えてくれている。
それは、ラストの一行、和子の一言にも表れているのだろう。
呆然としていると和子が「早く飯食え」といった。(P158より)
人間であれば、それでも腹はへるし、それでも飯を食うし、それでも生きていく。
人は住み、出ていき、生まれ、死んでいく。
そうした当たり前の事実に、畏敬の念を抱かせるような、そんな力が『荒地の家族』にはある。
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おわりに「震災文学」の可能性
かつて『遺体: 震災、津波の果てに』というルポルタージュを読んだとき、強い衝撃を受けた。
ここに描かれている傷ましい光景が紛れもなく現実であったこと、その現実を経験した遺族が今もその悲しみを背負って生きていること、その事実に言葉にならないほどの重みを感じて打ちひしがれてしまったのだ。
僕は改めて、東日本大震災が「数」では計り知れない、凄まじい出来事だったのだと思った。
この記事でも触れたが、たとえば「死者2万人」という言い方からは、個人の死や、個人の苦しみ・悲しみが見えてこない。
僕たちは、その数の規模に圧倒されはするが、その数に覆い隠されてしまった大切な部分を、ややもすると見落としてしまいかねない。
文学の可能性とは、そうした数に回収されてしまった「個人」を回復することなのだ、と僕は考えている。
そうした意味で、本書『荒地の家族』は、震災後に生まれ出た、本格的な震災文学だと思う。
ここにはドラマチックな展開も、手に汗握るようなヒューマンドラマもない。
ただ、人々の死と、悲しみと、生き残った者たちの営みが、淡々と、ある種の諦観をもって語られていくだけだ。
それでも、最後の光明は、多くの人にささやかな希望を感じさせてくれる。
「それでも生きていく」という、ささやかな祈りのような声は、僕たちが決して絶やしてはいけない、最後の尊厳なのだと僕は思う。
作者佐藤厚志は「震災を扱った文学は、多くの人に手に取ってもらえないかもしれない」という思いを承知で、この作品を書きあげたと語っている。
だけど、震災を忘れないためにも、人々の悲しみを知るためにも、そして、こんな時代に、わずかな希望の灯を絶やさないためにも、本書は多くの人に届けるべき文学であると、僕は思う。
記事は以上でおしまいです。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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