はじめに「日本語には主語がない?」
――日本語には主語がない――
あなたは、こんな説を聞いたことがあるだろうか。
「日本語学をかじったことがある」って人、あるいは、「人並み以上に日本語に興味がある」って人じゃない限り、おそらくは聞いたことはないかもしれない。
なぜなら、僕たちは、小学校や中学校の国語の時間で次のように教わるからだ。
「日本語には、主語と述語というものがあります。その他にも修飾語とか接続語とかがあって……」
そう、みんなが大嫌いな文法の授業である。
「その中でも、特に「主語」や「述語」が重要な働きをしています」
そう説明したあと、確か先生は次のように説明していたはずだ。
「そして、日本語の主語というものは、多くの場合省略されます」
確かに、日本語には「主語」がないものが多い。
「週末なにしてた?」
「一日中寝てたよ」
こんな会話は、日常の中でよく耳にするが、
「あなたは週末なにしてた?」
「私は一日中寝てたよ」
なんて会話は、耳にしない(文法書の中で目にするかもしれない)
確かに、日本語の主語というのは、多くの場合省略されるのかもしれない。
ただ、ここで、大きな問題提起をしたい。
そもそも、日本語に主語なんてないのではないだろうか。
こうした考えを持つ日本語学者というのは、実は一定数存在していて、彼らは「主語不要論者」と呼ばれている。
この記事では、そんな「主語不要論」について解説をしてきたい。
ぜひ、お時間のある方は最後までお付き合いください。
主語にまつわる3つの論争
――日本語に主語なんてない――
こう主張する人たちを「主語不要論者」という。
彼らが「主語不要論」を説く際に、その根拠となるのは「主語」を持ち出したことで起こる、「文法的な不自然さ」である。
たとえば、先ほど例にあげた、
「あなたは週末なにしてた?」
「私は一日中寝てたよ」
なんていう会話の不自然さは、誰の目にも明らかだろう。
それ以外にも、
「ほら、富士山、見て!」
「ほんとだ、おっきいねえ!」
なんて会話はまったく不自然ではないけれど、ここに「主語」を入れようとすると、とたんに不自然(というよりも、奇妙な)日本語になってしまう。
「ほら、富士山、あなたが見て!」
「ほんとだ、富士山はおっきいねえ!」
こうした例は、あくまでもほんの一握りのもので、あなたの日常会話を思い出しても、「主語」なんていちいち入れていないことが分かると思う。
そして、そこに「主語」を補おうとすると、不自然な日本語だったり、奇妙な日本語になったりしてしまう。
こんな感じで、日本語に「主語」を持ち出すことで、様々な問題が生じているのである。
以下では、そんな「主語」にまつわる代表的な論争を3つ紹介したい。
- 総主論争
- ウナギ文論争
- こんにゃく文論争
である。
この3つは日本語学の歴史の中で、ずっと議論されてきた有名な論争である。
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論争➀「総主論争」
この論争の最大の争点は、
「日本語には、主語が特定できない文があるよね」
といったものだ。
たとえば、次の文章の主語は何か、ちょっと考えてみてほしい。
東京は、面積が広くて、人口も多い。
この文の主語は何だろう。
その議論は、たぶん次の感じで展開される。
Aさん「まず『東京 = 広い』わけなので、主語は『東京』でしょ?
Bさん「いやいや、あくまで『面積 = 広い』なんだから、主語は『面積』でしょ?」
Cさん「でも、最後の述語『多い』はどうなるの? 『東京 = 多い』も『面積 = 多い』もどっちも変でしょ?」
ABCさん「うーん……」
日本で最初に「学校文法」を提唱した日本語学者に大槻文彦がいる。
彼によれば、この文は「二重主語文」だといい、
すなわち、
- 東京は(主語1) 面積が(主語2) → 広くて(主語の説明)
- 人口も(主語3) → 多い(主語の説明)
といった具合だ。
この文がややこしいのは、助詞の「は」と「が」が文の中に同居しているからだろう。
僕はタロウだ。
僕がタロウだ。
こんな風に「は」も「が」も、主語の前に置かれる助詞だ。
だからこそ、「東京は」も「面積が」も、主語として捉えられるのだろう。
この類の文は、日本語には沢山ある。
- 日本人は、髪が黒い。
- 太郎は、頭がいい。
- 象は、鼻が長い。
それぞれ「主語はなに?」と考えれば、まぁ「髪」であり「頭」であり、「鼻」でありそうなのだが、「日本人」も「太郎」も「象」も100%無視することはできない。
むむむ・・・と割り切れなさが残る文なのだ。
以上が「総主論争」、言い換えて「主語は1つ? 2つ? 論争」の概要である。
ちなみに「は」と「が」については、こちらの記事で詳しく説明をしているので、ぜひ参考にどうぞ。
【 参考記事 解説【”は”と”が”の違いとは何か】—日本語学における超難問に挑む— 】
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論争➁「ウナギ文論争」
なんとも可愛らしくて、キャッチ―なネーミングである「ウナギ文論争」
この論争の最大の争点は、
「日本語には、主述が一致しない文があるよね」
といったものだ。
たとえば、次の親子の会話を見てほしい。
母「ねえねえ。お昼ごはん、何食べたい?」
子1「ぼくはウナギ!」
(子2「ぼくはステーキ!」)
この会話も、日常的にありうるやり取りであり、コミュニケーションもきちんと成立している。
が、やはり気になるのは、この1文。
ぼくはウナギ
である。
これは「僕はタロウ」「私はハナコ」のように、「Iamウナギ」的意味で受け取ってはいけない。
言うまでもないが、子1は「僕はウナギが食べたい」という意味で「僕はウナギ」と言っているのだ。
だったら、「何が食べたい?」の質問に対して、子1は「僕はウナギが食べたい」と答えるべきなのだが、そんなまどろっこしい返答のほうが、日本語においてはよっぽど不自然である。
ちなみに、日本語学者の北原保雄は、この「僕はウナギ」が生まれるに至るプロセスを次のように説明している。
〇僕は、ウナギが、食べたい。
↓
〇僕が、食べたいのは、ウナギだ。
↓
〇僕のは、ウナギだ。
↓
〇僕は、ウナギだ。
うーん、なんかさすがに無理があるぞ。
こんな力技みたいな説明をしなければ、この「僕はウナギだ」は説明できないのだろうか。
それに、よくよく考えれば「僕はウナギが食べたい」という元の文だって、主語は「僕」なのか「ウナギ」なのか、よくわからない。
「僕はウナギだ」という文は、スタートからして「主語」不明の文なのである。
以上が「ウナギ文論争」、言い換えて「IamウナギでホントにOK? 論争」の概要である。
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論争➂「こんにゃく文論争」
これまたキャッチ―なネーミングの「こんにゃく文論争」
この論争の最大の争点は、
「日本語には、うまく主語を補えない文があるよね」
である。
たとえば、次の会話を見てほしい。
A子「ねえねえ、ダイエット始めたんだけど、オススメのダイエット食ってある?」
B子「えー、そうだなあ……」
A子「もったいぶらないでよ~」
B子「あ、こんにゃくは太らないよ!」
さて、ダイエットをしたことがない僕にとって、これが「日常会話」なのかよく分からないけれど、「自然な会話」であることは間違いない。
さて、このやり取りで気になるのは、この1文。
こんにゃくは太らないよ
である。
これも先の「僕はウナギだ」と同じで、「こんにゃく = 太らない」と受け取ってはいけない。
なぜなら、この述語「太らない」の主語は「こんにゃく」ではなく「A子」だからだ。
じゃあ、この「こんにゃくは太らないよ」という文を正しく言い直してみよう。
A子「おすすめのダイエット食品ってある?」 B子「あ、こんにゃくは(A子がたべても)太らない(食べ物だ)よ」
A子「おすすめのダイエット食品ってある?」
B子「あ、こんにゃく(を食べたとしても、A子)は太らないよ」
と、こんなふうに、ムリヤリ説明的に表現するほかないだろう。
ただ、こんな奇妙な日本語使っている人はきっといないし、いたとしても、コミュニケーション難のため、きっと友だちが減っていくと思う。
どう考えたって、「こんにゃくは太らないよ」のほうが、自然な日本語だ。
じゃあ、この文の「主語」っていったい何なのか?
こう問い続けても、すっきりと気持ちの良い答えは出てこない。
述語の「太らない」は「こんにゃく」ではなく「A子」であるはずなのに、「こんにゃくは太らない」という文が、なぜか成り立ってしまう。
以上が「こんにゃく文論争」、言い換えて「太らないのは一体だれなの? 論争」の概要である。
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まとめ「日本語には主語がない!」
以上、「主語」にまつわる有名な3つの論争を紹介してきた。
それらをザックリとまとめると、こんな感じだ。
総主論争 →「日本人は髪が長い」の主語は1つ?2つ? ウナギ文論争 →「僕はウナギだ」の主語は「僕」でよい? こんにゃく文論争 →「こんにゃくは太らない」の主語は「こんにゃく」でよい?
以上の問題は、日本語学において頻繁にされる問題だ。
これらの問題を踏まえて、改めて問題提起をしたい。
そもそも日本語に主語はないんじゃないか?
僕自身、大学で「人文学」を専攻し、「言語」についてそれなりに勉強をした。
日本語文法についても興味があり、多くの書物に触れてきた。
そんな僕は、やっぱり「主語不要論者」の1人である。
もちろん上記の3つの論争も「主語不要論」の妥当性を強めるものだと思うのだが、僕が「主語不意論」の立場に立つ理由は、もっともっとシンプルで直感的である。
僕の日常会話を振り返ってみたとき、やっぱり「主語」がないのだ。
「あした仕事いきたくないよねー」とか、
「今日の晩飯、何がいい?」とか、
「ありがとう、とってもうれしい」とか、
そうした、何気ない発話って、いちいち主語がない。
「あした(俺もお前も)仕事いきたくないよねー」じゃ、やっぱり変だし、「今日の晩御飯、(あなたは)何がいい?」じゃ、不自然だし、「ありがとう、(僕は)とってもうれしい」じゃ、なんだが間抜けである。
こうした状況について、「主語が省略されている」と考えるよりは、「そもそも日本語に主語はない」と考えた方が、僕自身とってもしっくりくるのだ。
と、いうことで、僕は「主語不要論者」の1人である。
あなたはどう思うだろう。
日本語に主語はない? やっぱり主語はある?
日本語における「主語」にはまだまだ謎が多く、今もなお様々な議論が交わされている。
これらの議論に触れ、日本語について考えることは、日本人の「人間観」や「世界観」を知ることにつながっていく。
( 参考記事 日本語の特徴を解説・考察!―日本文化の人間観と世界観を解明― )
日本語とは、日本人とは、とっても奥深く、興味深い存在なのだ。
この記事をきっかけに、日本語や日本人の「おもしろさ」を感じてくれればうれしい。
それでは、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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オススメの本はこちら
日本語文法の謎を解く(金谷武洋)
筆者も「主語無用論者」の1人である。
この記事の大半は、本書を参考にして書いた。
筆者の説はとても真っ当で、「日本語に主語はない」という説にも納得できる。
「日本語」と「英語」との比較、というのも本書の主眼である。
「日本語とはどのような言語か」を通じて「日本人はどのような存在か」を考えていく、おもしろい1冊。
『日本語の教室』(大野晋)
こちらも日本語学の第一人者、大野晋の言語学エッセイ。
文法的に興味深いトピックが多く、身近な表現を例に日本語の本質へと迫っていく。
また、日本語と漢字の関係についての説明もとってもためになる。
主に、日本語の「起源」や「歴史」について興味がある人にオススメ。
本書を読めば、日本語の魅力について改めて知ることができると思う。
『日本語と外国語』(鈴木孝夫)
日本語学の権威ともいえる鈴木孝夫の代表作。
こちらも、外国語との比較を通して、「日本語とは何か」、「日本人とは何か」をあきらかにしていく。
こちらはエッセイなので、とってもよみやすく、かつ言語学のおもしろい部分をしっかりと味わえる。
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