はじめに「“チャーリイ”は自分だ」
「あなたの余命はあと数ヶ月です」
もしも、ある日とつぜん、そんなことを告げられたら、あなたはどんなことを思うだろう。
そうした「もしも」を、切実に考えさせてくれる、世界駆使の文学作品がある。
それが『アルジャーノンに花束を』だ。
本作は、アメリカの作家ダニエル・キイスによって1966年に発表された「長編SF小説」だ。
「SF」というのはサイエンスフィクションの略語で、つまり「科学的にこんなことがあったら面白いよね」といったことを描く小説ジャンルである。
ただ、本書『アルジャーノンに花束を』で描かれているのは、エンタメ重視の呑気なフィクションではなく、すべての人間に共通する「悲しくて切実な問題」である。
それが理由に、『アルジャーノンに花束を』を読んだ世界中の読者の多くは、こんなふうに思ったという。
――この作品の主人公は、僕(私)だ――
この言葉は多くの読者が、主人公チャーリイ・ゴードンに共感し、チャーリイ・ゴードンの生き方に心を打たれたことを物語っている。
本書は、それくらいの吸引力を持つ作品で、今もなお、多くの読者を魅了し続ける傑作だ。
では、『アルジャーノンに花束を』とは、一体どんな作品なのか。
この作品には、どのようなテーマが扱われているのか。
この記事では、そうしたことにスポットを当てて、解説や考察を行っていく。
記事を読み終えれば、作品のテーマや魅力を理解し、物語に記された“最後の言葉” に込められた意味も、深く理解できると思う。
お時間のある方は、最後までお付き合いいただければ幸いです。
登場人物
チャーリイ・ゴードン …32歳の精神遅滞の男性。パン屋で働いている。日ごろから「頭が良くなりたい」と願っており、ある時、知能を急激に上げる手術をうける。その結果、高い知能を手に入れるが、自らの過去の真実や、人々の悪意などに直面し苦悩する。
アルジャーノン …チャーリイと同じ手術を受け、高い知能を獲得した雄ネズミ。手術後しばらくは高い知能を維持したが、やがて知能の退化が始まり、狂暴化した挙句、死亡する。
アリス・キニアン …チャーリイが通う精神遅滞者専門の学習クラスの女性教師。チャーリイの学習意欲の高さを見込み、知能アップの手術を勧める。知能を上げたチャーリイと恋をするが、急激に変化していくチャーリイの姿を見て責任を感じ、苦悩する。
ストラウス博士 …ビークマン大学の精神科で脳外科医。チャーリイの手術を担当する。術後もチャーリイの変化を観察しつつ、チャーリイと交流する。
ニーマー教授 …ビークマン大学の心理学部長。知能アップのプロジェクトの責任者。プロジェクトの成功と出世を望んでいる。
バート …ビークマン大学で心理学を専攻する大学院生。知能アッププロジェクトを補佐する。
マット・ゴードン …チャーリイの父親。チャーリイの精神遅滞に理解を示すが、妻とのいさいが絶えず離婚。その後、理髪店を営み一人で暮らす。
ローズ・ゴードン …チャーリイの母親。チャーリイの精神遅滞を受け入れられず、幼いチャーリイに度重なる虐待を加える。第2子(ノーマ)の誕生をきっかけに、チャーリイを邪険に扱うようになり、チャーリイを捨てる。
ノーマ …チャーリイの妹。チャーリイとは6歳ほど離れている。幼少時代は精神遅滞のチャーリイを嫌悪したが、大人になり記憶が薄れる。母からは「兄はすでに死んだ」と聞かされている。
ドナー …チャーリイが勤務するパン屋の店主。亡き親友ハーマン(=チャーリイの叔父)に頼まれ、チャーリイを15年にわたり雇っている。勤務する他の店員がチャーリイの変化を不気味に思い出したことがきっかけとなり、チャーリイを解雇する。
ギンピィ …パン屋の職人頭。足が不自由。売り上げを着服する現場をチャーリイに目撃され逆恨みする。
ジョウ …チャーリイの同僚。意地悪な性格で、チャーリイを侮辱する。
フランク …チャーリイの同僚。ジョウ・カープ同様、意地悪な性格で、チャーリイを侮辱する。
ファニイ …チャーリイの同僚。気立てが良く世話好きで、チャーリイに精神遅滞者専門の学習クラスを紹介する。
フェイ …チャーリイのアパートの隣人。独自の哲学を持つ絵描き。チャーリイと性的関係になる。
あらすじ
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テーマ①「知脳と苦悩」
なんといっても、この作品最大のテーマは「知能と苦悩」だといっていい。
それを象徴するのが、作中に何度か登場する「知恵の木の実」の記述である。
それが書かれているのが、以下の引用箇所だ。
少し長いが、 作品を貫く最大のテーマがここにあるので、頑張って読んでほしい。(なお、記事における引用は全て「ダニエルキイス文庫」の書籍による)
アダムとイブが知恵の木の実を食べたのは悪いことだった。二人が、自分の体に気がついて、欲望や恥を学んだのはいけないことだった。それからエデンの園から追い払われて、門をしめられちゃった。あんなことがなけりゃ、あたしたちは、みんな、年もとらなきゃ、病気にもならない、死にもしないですんだのにねえ」(P182より)
これは、パン屋の同僚ファニイの言葉なのだが、僕はここに本書を貫く最大のテーマがあると考えている。
これは「失楽園」という旧約聖書に記されている物語であり、もはや説明は不要だと思うのだが、アダムとイブという最初の人間が「絶対にこの知恵の実を食べちゃいかん」という神様の命令に背いた結果、天国から追放され人間界で苦悩するようになった、というのが大まかな内容である。
つまり、
「人間は知性を持ってしまったがゆえに苦悩するのだ」
という命題が、この失楽園にあるわけだ。
この「アダムとイブ」の状況は、高い知能を得たがゆえに苦悩するチャーリイの状況と一致している。
実際、作中で、チャーリイが『失楽園』を読み、感銘を受けている様が描かれている。
以下に引くのは、チャーリイの知能が再び退化を始めたあたりの場面である。
ほんの数カ月前に読んで楽しんだ本をとりあげてみて、内容が思い出せないというのは妙な気分だ。ミルトンは素晴らしいと思ったのはおぼえている。『失楽園』をとりだしたとき、それがアダムとイブと知恵の木の話だということだけを思い出させたけれども、意味がよく分からなかった。(P452)
ミルトンというのは旧約聖書の「創世記」をモチーフにした壮大な叙事詩を書いた詩人であるが、おそらくチャーリイは自らの運命を悟り「アダムとイブ」に、自分自身を投影させていたのだと考えられる。
それでは、チャーリイが知能を得た結果、彼はどんな苦悩を経験したというのだろうか。
それは大きく次の3つに整理できる。
1、人々の悪意と差別に気付いたこと 2、母からの拒絶と虐待を知ったこと 3、知能退化という運命を悟ったこと
では、以下、これら3つについて詳しく解説をしてみよう。
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テーマ②「悪意と差別」
チャーリイの苦悩その1、「人々からの悪意や差別」について。
これはチャーリイの手術前から 日常的にあったものなのだが、しかし、チャーリイは彼らの悪意や差別には気が付かない。
フランクはげらげらわらってジョウカープもわらったけれどもそこへギンピイがきてろーるぱんをさっさとつくれといった。みんないい友だちなのです。(P61より)
こんな風に、チャーリイは日常的に自分に対して向けられる悪意や嘲笑は、すべて「自分自身への好意」として理解をし、そんな彼らをみな「友だち」として認識しようとする。
だけど改めてここで、チャーリイがなぜ「りこう」になりたいかを思い出してみてほしい。それは「沢山の友だちが欲しいから」であり、「友だちが自分のことを好いてくれるから」である。
チャーリイが自分自身に、こう言い聞かせるシーンがある。
もしおまえの頭が良くなったら話す友だちがたくさんできるからおまえわもうずーっとひとりぼちじゃなくなるんだよ。(P41より)
つまり、手術前の時点でも、チャーリイはすでに潜在的な「孤独」を感じていることが分かる。
同僚たちの振る舞いについても、チャーリイは はっきりとした「悪意」や「差別」だと認識はしていないものの、やはり彼らはチャーリイにとっての「本当の友だち」ではないのだ。
だからこそ、チャーリイは「りこう」にさえなれば、彼らと本当の友だちになれると考えているわけだ。
だが、皮肉なことに「りこう」になったチャーリイは、彼らの「悪意」や「差別」を明確に意識化することになる。
ジョウやフランクたちがぼくをつれてあるいたのはぼくを笑いものにするためだったなんてちっとも知らなかった。
みんなが「チャーリイ・ゴードンそこのけ」っていうときどういう意味でいっているのかようやくわかった。(P84より)
そしてチャーリイは思うのだ。
ぼくははずかしい。(P85より)
ここで改めて『失楽園』を思い出してみる。
アダムとイブが「知恵の木の実」を食べた時に、彼らの心に「恥」の感覚が生まれたわけだが、それは言い換えれば「他者からの評価を意識するようになった」ということになる。
チャーリイもそれは同様で、知能を獲得した彼は、「他者からの評価」つまり、自分に対する「人々の差別意識」というものを強烈に実感するにいたったのである。
ぼくはバカだから寂しんだ!
そうした思いから手術を決意したチャーリイ。
だけど皮肉なことに、念願の知能を得たことによって、彼はさらに強い孤独にさいなまれることになったのだ。
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テーマ③「愛着と孤独」
母から愛されなかった過去
チャーリイの苦悩その2、「母からの拒絶と虐待」について。
このテーマにおいては、幼少時代のチャーリイと母親ローズの関係が問題となってくる。
まず、手術を受ける前のチャーリイには、家族に関する記憶はほとんどない。
それはチャーリイ自身が、自らの記憶を抑圧し、無意識の奥深くに封じこめていたからだということが、物語を読み進めていくうちに分かってくる。
家族の思い出がよみがえるきっかけとなるのは、もちろん、手術による回想能力の向上だ。
ストラウス教授から「とにかく思い出すんだ」と何度も何度も促されるチャーリイに、ある日突然 家族の記憶がよみがえる。
とつぜんぼくは思い出す、彼女の名前がローズで、彼の名前がマットだということを。両親の名前を忘れていたなんて奇妙な話だ。それからノーマはどうしているんだろう? 長いこと彼らのことを考えもしなかったというのは不思議だ。(P133より)
家族の顔が不鮮明なのは、「記憶の抑圧」が今もなおチャーリイの中で働いているからなのだが、これを皮切りに、チャーリイはことあるごとに家族の記憶を取り戻していく。
それは、どれも苦しく悲しいものばかり。
その多くは、母ローズによる厳しい叱責と暴力である。
夫のマットとは異なり、彼女は、チャーリイが精神遅滞児であることを受け止めきれない。
そこには、ローズ自身の悲しみや苦しみがあるのだが、彼女はそうした自身の感情をうまくコントロールすることができない。
「この子は精神遅滞児なんかじゃない。言葉を覚えられないのは、この子が怠けているからなんだ」
そんな風に、彼女の悲しみは「息子を思い通りにしたい」というゆがんだエゴとなり、健常児のように振舞えないチャーリイに向かって激しく噴出する。
たとえチャーリイが恐怖のあまり失禁したとしても、チャーリイが「ごめんなさいごめんなさい」と何度も謝ったとしても、母ローズはチャーリイへの手を緩めようとしない。
だが、そんなローズの態度は、ある出来事をきっかけに変化する。
それは「妹ノーマの誕生」だった。
というのも、そもそもローズの内には、
「精神遅滞児を生んでしまったのは私のせいだ」
という罪悪感や自己嫌悪感がある。
チャーリイに厳しくなってしまうのも、
「なんとかして、チャーリイを普通にしてあげなくちゃ」
という、ある種の責任感の表れであったともいえる。
そこにきて「健常児ノーマ」の誕生は、ローズに自分自身を正当化させるのに十分だった。
要するに、
「チャーリイの精神遅滞の原因は、私じゃない」
というワケだ。
こうして、母ローズは、チャーリイを追い出すこととなる。
チャーリイの人格形成
さて、この一連の母からの仕打ちは、チャーリイにある感情を植え付けたといえる。
それは、
「ぼくがバカだからママが悲しむのだ」
「ぼくがバカだからママは僕を捨てるのだ」
といった自己否定や自己無能感である。
幼少期のこうした体験が、チャーリイの人格に与えた影響は計り知れない。
手術によって高い知能を得たチャーリイが、“性”に対して無意識の拒否反応を示したのも、母から十分な愛情を与えられなかった経験が大きい。
特に、アリスとうまく男女の関係になれなかったのも、母親から執拗に“性”を抑圧されたからというのもあるが、一番の理由はチャーリイがアリスに母親を投影しているからだと僕は考えている。
アリスと関係を持とうとすると、チャーリイはパニックになってしまうのだが、この根底には「大切な人を求めること」への強い恐怖感があるのだろう。
つまり、チャーリイは「見捨てられること」を極度に恐れているのであり、チャーリイの無意識では、
「見捨てられるかもしれないから、いっそハナから求めちゃいけない」
そんな防衛反応が働いているというわけだ。
ちなみに、こうした母からの愛情不足が その後の人格形成に大きな影響を与えている状態を、心理学用語で「愛着障害」と呼ぶ。
こうした表現でチャーリイの苦悩や孤独を要約するのはあまりに無粋なのはわかっている。
だけど、チャーリイの苦悩や孤独の根っこには、幼少期における母親との関係があると言わざるを得ない。
そしてこれは、チャーリイの「意識レベル」ではなく、「無意識レベル」で彼を苦しめ続けるものなのだ
だからこそ、どんなに高い知能を手に入れたとしても、チャーリイは自らの苦悩や孤独をぬぐい去ることができない。
彼の高度な知性によって対処できるのは「意識レベル」の問題であって、「無意識レベル」の問題ではないのだ。
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テーマ④「死と神秘体験」
「知能の退化」=「死」
最後に、チャーリイの苦悩その3、「知能退化という運命」について。
チャーリイは「自分の知能は まもなく退化してしまう」という運命を悟り苦悩することになるのだが、こうした展開こそ、本作を世界屈指の文学作品にしている要因だと僕は考えている。
高度な知性を手にしたチャーリイは、自分に施された手術の不完全さに気が付き、なんと自らニーマーらの研究プロジェクトに参加してしまう。
そして、「アルジャーノン・ゴードン効果」なる論文を完成させてしまうのだが、その論文の主旨を一言で言うと、
人為的に誘発された知能は、その増大量に比例する速度で低下する。(P401より)
というものだった。
要するに、
「自分の知能は急激に退化していく」
という結論である。
これは、少し見方を変えると、
「自我が失われる」ということであり、もっとざっくり言い換えれば、
「自分自身の意識が消えてしまう」
ということである。
これは、手術後のチャーリイにとっては、自らの「死」を意味すると言っても良く、高度な知性を持ったチャーリイは、ここにきて自分自身の「死」を悟り苦悩することになる。
チャーリイの「神秘体験」
さて、ここで特筆すべきは、チャーリイの「神秘体験」である。
『アルジャーノンに花束を』という作品の終盤で、
「光が…」とか、
「宇宙が…」とか、
そうした不可解なワードが連発する、ちょっと良く分からない場面がある。
僕は、ここに、チャーリイの「神秘体験」が語られていると考えている。
その体験とは、ざっくりと一言で言うと、
宇宙との一体化
ということになるのだろう。
ここから先は、かなり哲学的で難解な考察となっているので(しかも長文だし)、苦手な方は飛ばしてもらってかまわない。
興味のある方は、ぜひ、お付き合いください。
さて、この場面では、チャーリイの、「自我」と「無我」を行き来する様子が語られる。
いままさに宇宙と溶け合おうとするとき、意識の分水嶺のまわりで囁く声が聞こえる。そしてあの果しもなく軽く引き続ける力は、眼下の有限、必滅の世界へと私を縛り付ける。(P442より)
これは、チャーリイの自我が、「肉体」という牢獄から解放されつつある、そんな場面を描いたものである。
上記を分かりやすく2元化すると、
・宇宙と溶け合う=魂・無我 ・有限・必滅の世界=肉体・自我
ということになる。
チャーリイの魂は宇宙と一体化することを求めているのだが、彼の自我は肉体にとどまろうと抵抗する。
こうした記述がしばらく続いたあと、ついにチャーリイは、宇宙との一体という「神秘体験」を実現する。
融合だ――私の自我の原子が微小宇宙にのみこまれるのだ。 (中略) 多から一へとたちかえる。 (中略) そして私は湿っぽい迷路を泳いでいく、私を受け入れてくれるものを求めて、……私を抱擁し……吞みこんでくれるもの……それ自身の中へ。(P443より)
上記の “中略” の箇所には、チャーリイの体験した神秘的な出来事が、まるで「詩」のような文体で書かれている。
その中でも特に着目したいのは、「多から一へ」という言葉だ。
少しだけ込み入った話になるが、この「多から一へ」というのは、西洋哲学でいう「新プラトン主義」に見られる世界観であり、ザックリと簡潔に言うと、
「もともと、個人はすべて、宇宙の一部である」
とする世界観・思想である。
こうした世界観は、実は、さまざまな宗教にも共通してみられるもので、日本人の僕たちにもっとも馴染みあるのとして、仏教の「禅」の世界が挙げられるだろう。
いわゆる「無我」の境地 =「私」が消えて「世界」と一体化した状態……
禅仏教では、この状態を「悟り」と呼び、人間の「救済」の形として説明している。
「私」もなく、「意識」もなく、「言葉」もなく、そして「死」もない。
チャーリイの身に起きたのは、まさにこうした「神秘体験」(悟り体験)だと言っていいだろう。
そしてそれは、チャーリーにとっての「臨死体験」だったのだ。
知能の退化はチャーリイにとっての「死」である。
その死に向かう中で、彼は、自分を包み込む「大いなる何か」に触れることができたのだろう。
それは1つの「救済」である。
この体験を語るチャーリイは、最後に「プラトンの言葉」を引用して締めくくっている。
〈……洞窟の人々は彼のことを、何も見えぬまま、昇ってゆきおりてきたのだとういうだろう……〉(P446より)
これは、プラトンの有名な「洞窟の比喩」の言葉だ。
詳しい説明は割愛するが、ここでいう「彼」というのは、「真理に触れた人間」、つまり「神秘を体験した人間」のことを指している。
繰り返しになるが、束の間であるが、チャーリイはこの世界の「真実」に触れることができたのだ。
僕は、そう解釈している。
それにしても、この「神秘体験」の箇所は、『アルジャーノンに花束を』の中でカナリ異彩を放っている。
たぶん、多くの読者が、この場面で面食らったに違いない。
じっさい、僕自身も、そうした読者の1人だ。
いや、だって、明らかにここだけ、小説のテンションが異なるではないか。
はじめて読んだとき、「ちょっと何いってるか分からん!」と流し読みをしたのだが、何度も読み返していく中で、次第にこの場面の意味が分かるようになってきた。
その僕なりの解釈が、上記の内容である。
そにしても、ダニエル・キイスはなぜ、こんな場面を書いたのだろうか。
その答えは、ひょっとして、ダニエル・キイス自身にも分からないのかもしれない。
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作者が伝えたかったこととは
「それでも知りたい」と思うこと
ここまで『アルジャーノンに花束を』について、テーマごとに解説してきた。
では、ダニエル・キイスが、この作品を通して読者に最も伝えたかったことは何か、それについて僕の考えを述べて、この記事をおしまいにしたい。
まず、『アルジャーノンに花束を』についての解釈や考察は、ネット上にも沢山ある。
もちろん、文学の読み方なんて人それぞれだし、正解だって人それぞれなのだが、それを前提にしても、僕にはどうしても納得できない解釈があった。
それは、
「本作で作者が伝えたかったことは、“知らなくてもいいことは知らない方がいい”ということである」
といったものだ。
んなわけあるかい!
と、これを読んだ僕は激しい反発を覚えた。
なぜなら、それはつまり、本作で描かれた「チャーリイの苦悩や孤独は全くの無意味だ」と言っているに等しいからだ。
なんと身もふたもない解釈だろう。
そんな文学、あってたまるか。
ということで、僕は次のように考える。
ダニエル・キイスが伝えたかったこと、それは、
「たとえ傷ついたとしても、それでも“知りたい”と願う、それが人間である」
ということなのだろう。
「考えること」こそ人間の尊厳
「人間は生まれた瞬間は、だれもが無傷である」
これは、作家「江國香織」の言葉だ。
人間は生まれた時はだれもが無傷なのに、成長するにつれて、みなが例外なく傷ついていく。
それはなぜなのだろう。
その答えは、僕たち人間が、成長するにつれて「知性」を獲得していくからだ。
それは、『アルジャーノンに花束を』を読めば明らかで、僕たちは知性を持つから、他人の悪意に傷ついたり、自分の無力さに打ちひしがれたり、自らの死を悟って絶望したりする。
自分の存在意義とか、生きる意味とか、死んでいく意味とか、そういう「哲学的な問い」にとらわれてしまうのも、僕たち人間に「知性」があるからに他ならない。
では、そうした「複雑な問い」は、知らなかった方が良かったのだろうか。
生きる意味とか、死んでいくことの意味とか、一生なにも考えずに、ぽっくり人生を終えた方が、人間は幸せなのだろうか。
僕は、決してそうは思わない。
どんなにつらくても、苦しくても、生まれてきたからには「知りたい」とか「問い続けたい」とか、そう考えるのが僕たち人間なのではないだろうか。
それは、最後の最後まで「知性を失いたくない」ともがいた、チャーリイの姿と何も変わらない。
繰り返すが、どんなに苦しんだり、悲しんだりしたとしても、「それでも考えたい」と思うのが、僕たち人間なのだ。
『アルジャーノンに花束を』で描かれているのは、そういう僕たち人間の真実の姿なのだと思う。
「最後の1文」の意味
人間は「知恵の木の実」を食べたからこそ、人生の中で傷ついていく。
それでも、僕たちは、そうした人生を肯定しながら、事実として生きている。
『アルジャーノンに花束を』を読んだ多くの読者は、こう思ったはず。
チャーリイ・ゴードンは僕(私)だ。
そう思うのは、「苦しくても知りたい」とか、「自分の運命を全うしたい」と願うチャーリイの姿に 共感しているからに他ならない。
そして、本書が言いようもなく読者の胸を打つのは、そうした人間の「苦しみ」に目を背けることなく、
「それでも考え続けることこそ、人間の尊厳なのだ」
と、人生を肯定してくれるからではないだろうか。
物語の最後の1文。
チャーリイは、報告書の追伸にこう書いている。
どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。
この言葉にはいいようもない孤独と悲哀が現れているが、それでもどこか、ほのかな温かさがにじんでいる。
その温かさは、「手術を受けたこと」と、「その後の生活」を、チャーリイ自身が肯定していることから来るものなのだと思う。
「アルジャーノンの死」というのは、チャーリイが経験した幻のような“8か月間”の象徴である。
だとすれば、アルジャーノンに花束を捧げることには、チャーリイの次のような思いが込められている。
「手術を受けて、確かに僕は傷ついた。手術を受けて、環境は一変した。手術を受けて、僕は孤独になった。それでも、僕は考え続けたあの日々を決して否定しない」
――アルジャーノンに花束を――
この言葉には、チャーリイの孤独と悲哀、そして、傷つきながらも考え続けたチャーリイの尊厳が現れている。
以上、『アルジャーノンに花束を』の解説を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
オススメ『24人のビリー・ミリガン』
『アルジャーノンに花束を』に並んで、ダニエルキイスの代表作に『24人のビリー・ミリガン』という作品がある。
このビリー・ミリガンというのは、実在の人物だ。
強盗強姦事件で逮捕・起訴された彼は、実は解離性同一性障害( 一昔で言う「多重人格」 )を患っていた。
本作は、そんなビリー・ミリガンへの取材をもとに書いたノンフィクション小説なのだが、とにかくビリー・ミリガンの頭の中が実に興味深い。
文字通り「24人」の人格を持つビリーなのだが、彼の頭の中には「スポット」と呼ばれる”ステージ”のような場所があって、そこに立つものが”人格”として外に現れてくる。
各人格は実に様々で、年齢も違えば、性別も違う、しゃべる言語も違えば、なんと身体能力まで異なっている。
中には、「好ましくない人格」という連中がいて、そいつらは常に”ビリー本人”を傷つけようとたくらんでいるため、その他の人格たちによって抑圧されている。
そして、当の”ビリー本人”もまた、目覚めれば自殺の危険があるため、他の人格によって眠らされている。
これが、一人の人間の”意識”に起きているできごとなのである。
「人間の心とは、なんと深く、なんと不可解なものなのか」
本書を読むと、人間の神秘を感じずにはいられない。
心理学を専攻していたダニエル・キイスだからこそ描けた、驚きのヒューマンドラマ。
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コメント
こんにちは。
ヨルシカという音楽アーティストの「アルジャーノン」という曲を聴いていて、そのモチーフになった「アルジャーノンに花束を」をどのように解釈しようかと探しているうちに、こちらのサイトに辿り着きました。
私は自分の考えを文字にするのが苦手なのでこの気持ちを上手くお伝えできないのですが、とにかくKENさんの書評が分かりやすいし、そしてKENさんの想いが心に響きました。
大げさかもしれませんが、自分の人生観のようなものが少し変わった気がします。
素敵な書評をありがとうございました。
山田さん
コメントありがとうございます。お気持ち、十分すぎるくらい伝わりました。そして、こうして自分が書いたものが、山田さんの心に届いたことをとても嬉しく思います。
『アルジャーノンに花束を』という作品は、人間の悲しみや孤独を描きつつ、それでもそこから見える一握りの希望を読者に提示してくれる素晴らしい文学だと僕は思っています。僕自身も、人生のいろんな場面で何度も立ち止まり、悩み、考え続けてきました。だからこそ、主人公のチャーリーに自分自身を投影するのだと思います。そんな個人的な思いがこの記事には出過ぎてしまった嫌いはありますが笑 でも、だからこそ、山田さんのコメントは僕にとってとても嬉しいものでした。また、時間のある時にでもブログをのぞいてもらえると嬉しいです。
ヨルシカの『アルジャーノン』聞いてみました。原作の世界観をうまく表現した素敵な曲ですね。
KENさん、ありがとうございます。
お伝えできて良かったです。
私も漠然とした生きづらさを感じることが多く、KENさんのプロフィールを見てとても感化されました。今度、夏目漱石の『それから』を読んでみたいと思います。
私自身は「これは自分のことだ」と思える本にはまだ出会えていないので、KENさんの様々な書評も参考にさせていただきながら、いつかそのような本が見つかるといいなと思っています。
KENさんのことをこれからも応援しております。
ありがとうございます。漱石の『それから』ぜひぜひ読んでみてください。そして、もし響くものがあれば漱石の他作品にも触れてみてくださいね。
これからも、素晴らしい作品を紹介していきたいと思います。山田さんもお時間のある時でもいいので、気軽にブログをのぞいてくださると嬉しいです。よろしくお願いします。