はじめに「二人称」を採用した小説
2022年下半期芥川賞受賞作『この世の喜びよ』は、「二人称小説」という体裁をとる、近年では珍しい作品だ。
物語は、中年女性「あなた」と少女の交流と、あなたの子育ての記憶が中心に紡がれていくのだが、読みながら静かな感動を催すのは、この二人称小説という企みが大きく成功しているからにほかならない。
それから、作者の井戸川射子には詩人との顔もあることから、本書には様々なメタファー(比喩)が多用されている。
この記事では、そんな『この世の喜びよ』に関する解説と考察をしていきたい。
- 物語の内容の解釈
- 二人称小説の効果
- タイトルの意味
などなど、本作品をあらゆる角度から読み解いていく。
また、最後に芥川賞作品を効果的に読むオススメのサービスなんかも紹介しているので、ぜひ参考にしていただけると嬉しい。
それでは、最後までぜひお付き合いください。
登場人物(ネタバレあり)
あなた(穂賀) ……ショッピングセンターの喪服店に勤務する女性。勤続10年以上、週5で働くパートタイマー。社会人の長女、大学生の次女がいる。ある少女と交流する中で、かつての子育てを思い出す。
少女 ……中学3年生。ショッピングセンターのフードコートに出入りしている。両親に命じられ1歳の弟の面倒を見ている。あなた(穂賀)から育児についての助言を受ける。
多田 ……ショッピンセンターのゲームセンターに勤務する23歳の男性。あなた(穂賀)や少女と交流する。
おじいさん ……ショッピングセンターのゲームセンターでメダルゲームにいそしむ老人。あなた(穂賀)と少女と交流する。
加納 ……ショッピングセンターの喪服店に勤務する女性。あなた(穂賀)の同僚。三十歳の子どもがいる。
長女 ……あなた(穂賀)の娘。1年目の小学校教員。名古屋の彼氏を頼って家出する。
次女 ……あなた(穂賀)の娘。大学生。家出した長女を追いかけて名古屋に行く。
夫 ……あなた(穂賀)の夫。転勤が多く、娘たちが小学校のころに単身赴任をしている。
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あらすじ(ネタバレあり)
解説①「あなた」とショッピングセンター
「あなた」が働く喪服店も、少女が出入りする「フードコート」の、おじいさんが入り浸る「ゲームセンター」も、すべて同じショッピングセンターにある。
本作『この世の喜びよ』の舞台がショッピングセンターであることに、象徴的な意味があるのではないか、と僕は考えている。
一般的にショッピングセンターには、様々な店舗が集まっている。
小説においてもそれは同様で、衣料品売り場や食料品売り場はもちろん、交流の場、娯楽の場、そしてなんと仏具店まである。
つまり、ショッピングセンターは、人々の生活や人生の縮図だといって良い。
中でも特筆すべきは喪服店とゲームセンターである。
両者は次のものをそれぞれ象徴しているからだ。
・喪服店……「人生の終盤」や「老い」 ・ゲームセンター……「人生の序盤」や「若さ」
喪服店とゲームセンター、2つの店舗が向かい合う形で配置されているのは、きっと偶然ではない。
子育てを終え、いよいよ人生の終盤に差し掛かろうとする「あなた」だが、彼女はいつも喪服店から向かいのゲームセンターを眺めている。
そのことは、本書において繰り返し描かれる「過去を想起するあなたの姿」と、構図的に一致している。
また「あなた」は、かつて子育て時代、毎日ショッピングセンターに通ったというが、
「時間をやりすごすために毎日ここに通った」(単行本P8より)
とあるように、その理由が「時間をやりすごすため」だった点にも注目したい。
これはつまり「人生」をいたずらに過ごしてきてしまった若き日の「あなた」を暗示しているし、もっといえば「子育ての喜び」に対して無自覚のまま「なんとかその日をやりすごそう」としてきた「あなた」の姿を暗示しているといって良いだろう。
ちなみに、作中でおじいさんが「ゲームセンター」で「メダルゲーム」に熱中しているが、これもとても暗示的だと思う。
「ゲームセンター」にフォーカスするのであれば、まるで彼が「過ぎ去った過去」に執着しているように読むことができるし、「メダルゲーム」にフォーカスするのであれば、まるで彼が「人生」をいたずらにやり過ごそうとしているように読むこともできる。
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解説②「あなた」と子育て
本書『この世の喜びよ』の主要テーマに「子育て」がある。
「あなた」は、すでに子育てを終えていて、長女は社会人、次女は大学生に成長している。
フードコートの少女との交流は、そうした「あなた」の子育て時代の記憶を引き出していく。
その記憶は、
「娘の手から色んな匂いがした」であるとか
「咳き込む娘の体はバネみたいだった」であるとか
「娘がおフロの水を飲みまくった」であるとか、具体的かつ感覚的なものばかり。
そして、そんな記憶を思い出す「あなた」には、どこか「子育て時代」を愛おしんでいる様子がある。
ただ、その一方で、子育ての辛さを思い出しもする。
「娘が訳も分からず泣き出した」であるとか
「娘を昼寝させるためにとにかく出歩いた」であるとか
「娘が頭を打ったので脳神経科へ連れて行った」であるとか。
こうしたエピソードは、当時の「あなた」がいかに必死で、いかに気を張り詰めていたかを物語るものだ。
作中では「姿勢良く立つあなた」の姿が頻繁に描かれている。
それはまるで「自分がしっかり娘たちを育てなければ」という意識で生きてきた「あなた」の半生を暗示しているようだ。
物語の冒頭でも「しっかり立つこと」を病的なまでに意識する「あなた」の姿が描かれている。
あなたは努めて、左右均等の力を両足にかけて立つ。片方に重心をかけると体が歪んでしまうと知ってからは、足を組んで座ることもしない、腕時計も毎日左右交互につける。(P7より)
こうまでして、子育てを全うしようとしてきた「あなた」だが、その努力を正当に評価してくれる存在がなかったことも「あなた」が苦しむ要因だったといえるだろう。
それは、少女に対する「あなた」のこんな言葉からうかがい知れる。
そうだよね、いちいちが面倒くさいんだよね、そんなに褒められもせずにやってて(P24より)
誰かにしてもらうことが目標になるとつらいよ、もらえなかったから悲しむなんて(P45より)
これらの言葉の背後には、「あなた」の努力が夫から評価されず、娘たちから感謝されてこなかった経験がある。
ここで僕があえて言うまでもないが、子育てに苦労はつきものだ。
僕もまがりなりにも、子を育てる人間の端くれ(要するに父親)であるが、子育ての喜びと同時に辛さも知っている。
「どんなに自分ががんばったとしても、それを見てくれている人は誰もいない」
「どんなに子どもに尽くしたとしても、子どもから感謝されることはない」
子育てというのは喜ばしいことではあるものの、こうした辛さがあるのもまた事実だ。
子どもから一言「ありがとう」といってもらえれば報われるのだろうが、相手が言葉を知らない赤子であれば、当然それを期待することなどできない。
しかも、「あなた」の夫は、単身赴任で家にいない。
こうした状況からも、「あなた」の努力を近くで見て、近くで褒めて、近くで感謝してくれる人は、きっと誰一人いなかったことが分かる。
だからこそ、当時の「あなた」には「子育ての喜び」よりも「子育ての辛さ」の方が強烈に感じられていたのだろう。
繰り返すが、そうしたことは「あなた」の記憶や少女に対する言葉の端々から、確実に読み取ることができる。
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解説③「あなた」と現在の生活
それでは、「あなた」にとって子育てを終えた現在の生活が満たされているか、といえば、まったくそんなことはない。
むしろ、子育てをしていたころよりも、いっそう孤独で、いっそう虚無的であるように見える。
まず、大きくなった娘たちは「あなた」に感謝するどころか基本的に「無関心」であり、それどころか、かつての子育てのダメ出しまでしてくる。
たとえば、夜道の危険さを娘たちに分からせるために「逢う魔が時」という言葉を使ったことについて、
「あと、夕方は気をつけなさい、逢う魔が時だから逢う魔が時だからって、怖がらせすぎだったよ、私たちを」(P49より)
これに対して、
「だってそう言わなきゃ、自転車で私を追いこして行っちゃうじゃない」
と反論する「あなた」の姿は切ない。
それだけでなく、「あなた」は娘たちから何かと
「人のせいにしないでくれない?」(P46より)
などと、ダメ出しをされている。
挙句の果てに、長女の家出である。
この家出というのも、どうやら「あなた」への不満が表出したものであるらしい。
では、仕事の方は充実しているのかといえば、これまたそんなことはない。
勤続10年以上、週5の喪服店でのパートはとても単調なもので、時には理不尽なクレーマーを相手にしなければならない。
プライベートだけでなく、仕事の方でも劇的なことは何も起こらないのだ。
こうした「あなた」の変化がない単調な日々を象徴するもの、それが「喪服」である。
それは作中で、こんな風に暗示的に書かれている。
思い出などをできるだけまとわりつかせないためなのか、喪服は撫でるとどの生地もさらさらしている。(P14より)
喪服は、一つ一つの記憶がちっとも蓄積していかない「あなた」の日々のメタファーである。
「あなた」が喪服で出勤するのも、単調で代り映えのない生活を表現したものだろう。
今の「あなた」にとっての唯一の楽しみといえば、
「定年後の夫との新しい生活」(P49より)であり、
「映画を見続ける生活」(P78より)くらいのものなのだ。
こんな無味乾燥な日々に、潤いを与えてくれたもの、それが「少女」の存在である。
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・
解説④「あなた」と少女
変化のない単調な日々に、ある種の潤いを与えてくれたのが少女の存在だった。
「あなた」が少女と初めて言葉を交わした場面は、こんな風に記されている。
毎日来てたってつまらないでしょ、何も変わらなくてとあなたは話しかけてみた。口調は少女を意識し、久しぶりにとても優しいものになった気がした。(P20より)
この時「あなた」はすでに少女に共感している。
「あなた」には、「この子もまた何も変わらない日々を送っているのだ」という予感が働いているのだ。
自分の境遇に似ている「少女」と会話できたことで、「あなた」の心が幾分か和らいだことにも注目しておきたい。
さて、この少女は両親に命じられ、1歳の弟の面倒を見ているのだが、その姿から「あなた」はかつての子育ての記憶を思い出していく。
そして、自分の経験をベースにした助言を少女に伝えていくことになるのだが、そうした交流は少しずつ「あなた」の孤独感を癒していく。
ここで、本書の次の記述に注目してみたい。
誰か他の人がいなければ硬さも柔らかさも感じられないのは、良くない。娘たちだって、昔は二人では走れるだけで喜んでいた、みんな自分の体を確認するためにスポーツなんてして、合掌だって、両手のひらに気づくためにある。(P79より)
つまり、「自分の存在意義」、もっといえば「自らの尊さ」とは、たった一人で感じることはできないのだ。
少女との交流は、まさに「あなた」にとって「自分の存在意義」を感じさせてくれるものだったのだろう。
それは、少女もまた同じだったはずだ。
つまり、少女もまた「あなた」との交流によって、「自分の存在意義」を感じることができていたはずなのだ。
そのことは先の「合掌」という言葉に暗示されている。
少女と「あなた」の関係は、ちょうど右手と左手を合わせ、互いの感触やぬくもりを確かめ合う「合掌」に似ている。
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考察①「あなた」の目の悪さ
本書のタイトル『この世の喜びよ』は何を表しているのだろう。
「この世の喜び」とは、具体的に何なのだろう。
これについては、「考察③」で詳述しているので、そちらを読んでほしい。
ここでは「この世の喜び」に常に無自覚な「あなた」について解説をしたい。
作中では「あなたの目の悪さ」が頻繁に描かれている。
あなたは目が弱く、日光が強ければ見続けられない。娘たちが小さい頃は、毎日公園にも行くから大変だった。目は乾いて眩しく、耐えきれなかった。(P52より)
この「あなた」の目の悪さは、一体なにを象徴しているのだろう。
それは「目の前の喜びが見えない」という「あなた」の性格である。
私の目が悪いから、娘たちが眩しいからあまりよく見えていないのだろうか。(P52より)
こう自問自答する「あなた」は、「子どもと過ごす時間の尊さ」に気付いている。
にもかかわらず、それがどうしても「あなた」は実感として理解することができない。
生活のスピードに追われるように、つねにあくせくと生きて生きた「あなた」は、子どもとの一瞬一瞬をかみしめることができなかった。
そのことは、なんとか1日を乗り切るために「ショッピングセンターで毎日時間をやりすごした」(P8より)ことからも明らかだろう。
では一体、どうすれば「あなた」は一瞬の尊さや喜びに気付くことができたのだろうか。
本書『この世の喜び』で描かれているのはまさにココなのだ。
つまり「幸せや喜びに気付くことの難しさ」が、本書における最大のテーマなのだと僕は考えている。
「子育て」は、その代表的なものだ。
僕が改めて言うまでもないことだが、「子どもとの時間」は永遠には続かない。
いつかは大人になり、そして親の手を離れていく。
たとえば子育てを終え、心にも余裕ができたときに「あの頃に戻りたい」と思ったとしても、決してそれはかなわない。
過ぎた時間は、決して戻って来ない。
子どもとの一瞬一瞬は、決して繰り返すことのできないかけがえのない瞬間なのだ。
そんなこと、改めて僕が言うべきことではない。
だけど、子育てというのは、そうした当たり前のことを平気で見えなくしてしまう。
いや、それは子育てに限ったことではない。
僕たちの日常のすべては、そういう一回性を持った尊い時間のはずだ。
だけど、僕たちは平気でそのことを忘れ、「この世の喜び」をいつの間にか見落としてしまうのだ。
そのことを比喩的に表現したのが「目の悪さ」なのである。
ちなみに、少女の目も斜視であり(P40)、少女もまた「一瞬の喜び」を見失うものの1人として描かれている。
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考察②「語りの人称」について
本書『この世の喜びよ』の大きな特徴として二人称の文体が採用されている点が挙げられる。
「人称の違いが小説にどんな効果を生むか」について簡単に説明しよう。
一人称小説 ……語り手が「私」など ……「私」が知り得ることしか書けない
一人称小説は、要するに語り手の主観による物語である。
ということは、つまり「私」が見たり聞いたり感じたりしたことは書けるが、山田君や鈴木君が見たり聞いたり感じたりしたことは、基本的に書くことができない。
それから、「私」の思い込みや嘘なんかも想定されるので、「客観的に何が起きたのか」は、読者には最後まで分からないことになる。
三人称小説 ……語り手は「神」と呼ばれたりする ……物語を俯瞰でき、あらゆることが書ける
三人称小説は、要するに「神」の視点からの物語である。
ということは、登場人物の全てを見たり聞いたり感じたりしたことを書くことができ、しかもそこには嘘や矛盾がなく、基本的に読者は「書かれていることは全て真実である」という信頼のもとで物語を読むことができる。
では、本書『この世の喜びよ』で採用されている二人称小説とはどんな特徴を持つ小説なのか。
二人称小説 ……語り手は「あなた」について良く知る存在 ……語り手の「あなた」への思いを書くことができる
二人称小説は、語り手の「あなた」への思いを書き込んだ物語である。
語り手には様々な性格があって、たとえば「あなた」を分析・観察する者がいれば、「あなた」を労わったり慰めたりする者もいる。
二人称小説自体は割と珍しいもので、近年の芥川賞受賞作品の中ではたったの1作品だけ。
2013年受賞『爪と目』(藤野可織)である。
この時の語り手は、3歳の女の子で、父親の不倫相手「あなた」を不気味なまでに観察・分析していた。(「爪と目」は、受賞当時“純文学ホラー”とか呼ばれていた)
だけど、本書『この世の喜びよ』には、そうした観察眼や不気味さはみじんもない。
では、『この世の喜びよ』は二人称小説を採用したことで、どんな効果を生み出しているのだろう。
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考察③「二人称小説」による効果
『この世の喜びよ』を読むと、静かな感動がこみあげてくる。
それは、「あなた」について何者かが語るという、二人称小説という体裁が大きく影響しているといっていい。
この記事で散々確認してきたのは「あなたの苦労」や「あなたの孤独」である。
そして、そんな苦労や孤独を理解してくれる存在の不在である。
だけど、実はたった一人だけ、唯一「わたし」を理解してくれる存在がいる。
それが、この物語の「語り手」なのである。
この小説が与えてくれる静かな感動は、「あなた」にそっと寄り添っている「語り手」によってもたらされるものだ。
ショッピングセンターで時間をつぶしていた「あなた」も、
子どもを寝かせるために公園をうろついていた「あなた」も、
夫不在の中で娘のバトンの役員をつとめていた「あなた」も、
そして、娘が家出し、娘からなじられた「あなた」も、
そうした「あなた」の近くにそっとよりそい、彼女の苦労や孤独を理解してくれる存在がいることを、読者は常に感じることができる。
「あなた」の生活が劇的に変わるわけでもないし、「あなた」の苦労が劇的に報われるわけでもない。
だけど、こうした理解者がいてくれることが、この作品にあたたかな救いをもたらしてくれている。
では、一体、この語り手はだれなのだろう。
可能性として考えられるのは、次の2つである。
【 語り手は誰か 】 ・あなた(穂賀自身) ・超越的存在(要するに神)
こう考える根拠は、「語り手」が、「あなた」の半生や、もっといえば「あなた」の内面や記憶を知悉している者に限定されるということだ。
そんな者が現実世界にいないことは明らかなので、考えられるのは「わたし自身」か「超越者(神)」のどちらかということになる。
文学ユーチューバーの「つかっちゃん」さんは、物語の語り手を「あなた」であると解釈したうえで、
「この物語は『あなた』が少女に向けて書いた手紙だ」
という説を展開しているが、とても温かい読み方だと、僕はととても好感を持った。
【 参考動画 https://www.youtube.com/watch?v=oauf_-F4cEI 】
ただ、僕はどちらかといえば、
「語り手」=「あなたを見守ってくれている神」(もっともキリスト教徒ではない僕は“神”というより“人間を見守っている優しい存在”といった方がしっくりくる)
として解釈しているのだけど、こればかりはどっちが正解とかはないと思う。
大切なのは「あなた」の尊さを認めてくれる誰かが、間違いなくいるということなのだ。
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考察④「タイトル」の意味
最後に、タイトル『この世の喜びよ』の意味について触れて記事をおしまいにしたい。
まず、結論を言ってしまうと、
「この世の喜び」=「誰かの孤独に寄り添う喜び」
だと、僕は考えている。
では、作中で「あなた」は誰の孤独に寄り添ったのだろうか。
それはもちろん、一人で弟の面倒を見続ける「少女」である。
この作品が上手いところは、物語の終盤にかけて、少女も「あなた」と表現されていくことだ。
「え、このあなたって穂賀さんのこと? それとも少女のこと?」
そんな風に混乱してしまった方も多いのではないだろうか。
「あなた=穂賀」から「あなた=少女」へ。
こうした転回は、穂賀が「見守られる存在」から、徐々に「見守る存在」へとシフトしていることを表している。
そして、作品のラストシーン、次の言葉で物語は結ばれる。
あなたに何か伝えられる喜びよ、あなたの胸を体いっぱいの水が圧する(P96より)
一つ目の「あなた」は少女であり、二つ目の「あなた」は穂賀である。
そのうえで、「穂賀の喜び」が「少女に伝えることの喜び」であると明言されている。
ここで思い出したいのは、穂賀が「自分の経験」をベースに、少女に助言をしてきたということだ。
つまり、ここにおいても穂賀は、自分の孤独な経験をもとに、少女に寄り添おうとしているのだ。
誰にも理解されず、辛い思いをしてきた経験。
そういう悲しみの経験があるからこそ、穂賀は少女の悲しみに寄り添うことができるのだ。
もちろん、穂賀に寄り添ってくれている「優しい存在」(語り手)がいるのだが、穂賀はそのことに気が付きはしない。
これまで穂賀の尊さを担保し続けていたのは、穂賀の知りえない超越的存在だった。
だけど、ここからは、穂賀自身が自分自身の存在意義を確かめることができる。
自らの悲しみでもって、少女の悲しみによりそうことで、自分自身を感じ肯定することができるからだ。
「自分の悲しみが、目の前で悲しむ人に寄り添うことができる」
そのことを「実感」できること、これこそが、本書で描かれた「この世の喜び」なのだろう。
繰り返すが、穂賀は子育てにおいて、その「喜び」を実感できなかった。
だけど、ここからきっと、穂賀は少女や自分の娘に寄り添う中で、少しずつ「この世の喜び」を実感していくのではないだろうか。
というか、実感していってほしい、そう願いつつ、この記事をおしまいにしたい。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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