はじめに「哲学」って何?
「哲学」と聞いて、あなたはどんな印象を持つだろう。
たぶん多くの人は、高校時代に勉強した「倫理」を連想したり、ソクラテスだのプラトンだのアリストテレスだのといった有名な哲学者を思い浮かべたりするかもしれない。
あるいは「無知の知」とか、「三角形のイデア」とか、例の哲学用語を思いだ出したり、『純粋理性批判』とか『精神現象学』とかいった有名な書物を思い出したりするかもしれない。
すると、人々の感情として、
「哲学=なんだか小難しいもの」とか
「哲学=自分とは無縁なもの」とか
とにかく、哲学に対する「あまりよくない印象」を持つにいたってしまう。
だから、急いで強調しておきたいことがある。
それらを全部「哲学」ではない。
あえて言えば、それらは全部「哲学史」なのである。
「ソクラテス」とか「イデア論」とか「純粋理性批判」とかを覚えることは、言うまでもなく哲学の本質なんかじゃない。
「哲学」というのは、本来もっとおもしろくて、スリリングで、ちょっと恐ろしいもので、つまるところ、ずっとずっと魅力的なものなのだ。
この記事では、そんな哲学の主要テーマについて紹介したい。
今回扱うテーマをざっくりと言えば、
「時間が“流れる”っていうけど、一体、何が流れているの?」
といった問いである。
「時間」は哲学における主要なテーマであり、頻繁に議論される問題でもある。
その議論の内容と、問題の所在について分かりやすく解説をしていきたい。
では、最後までお付き合いください。
時間は「止まる」もの?
ドラえもんの秘密道具に、時間を止めることができる「ウルトラストップウォッチ」というものがある。
映画で頻繁に登場する定番中の定番アイテムで、たとえばドラえもん一行が敵のアジトに侵入したとき、おおかた次のように使われる。
のび「ドラえも~ん、敵の監視が厳しすぎて、これじゃ一歩も進めないよ~」
スネ「こんな時なんとかするのがドラえもんの役目だろ?」
ジャイ「ったく、いざって時に頼りにならないタヌキだぜ」
ドラ「僕はタヌキじゃない、猫方ロボット! えーっとこんな時は、あれでもないこれでもない・・・・・・・あった! ウルトラストップウォッチ~」
スイッチオン。
のび「わーすご~い。僕たち以外、みんなが止まっちゃったぞ」
ドラ「このボタンを押すと、僕たち以外の全ての時間が止まるんだ。さ、時間が止まっているうちに先を急ごう」
一行「おー!」
――自分以外の時間を止める――
きっと、あなたも一度くらいは空想したことがあるはず。
だけど、ドラえもんたちのこの状況をよくよく考えてみると、根本的な問題点にぶち当たる。
あらためて考えるべき点、それは
「ほんとうに“時間”は止まったのか」
という点だ。
確かに、ボタンを押したことで、敵の監視員の動きはピタリと止まった。
それ以外にも外界のすべての動きは止まっているだろう。
時計の針なんかも止まっているし、川の流れも止まっているし、ヒラヒラ舞っていた葉っぱも空中で止まっている。
ただ、それってイコール「時間が止まったこと」になるのだろうか。
そもそも外界の全ての動きが止まる中をドラえもんたちは自由に動き回れるワケなのだが、彼らの時間は依然として流れ続けているようにも思われる。
たとえばこの後、次のような展開になったとしたら、状況はとってもややこしいことになる。
のび「よし、僕たち以外は動きが止まった。これでアジトの中心部にいけるぞ!」
ジャイ「じゃあさ、誰が1番早く中心部に着けるか、いっちょ競争してみようぜ」
スネ「それはいい考えだ! 負けたヤツは、鼻でピーナッツを食べる罰ゲームだぞ」
ドラ「望むところだ。じゃあ、しずかちゃんは審判をお願いね。僕たちのタイムをちゃんと数えているんだよ」
しず「わかったわ。じゃあ最初はのび太さんからね。準備はいい? 位置について~、よ~いどん! 1、2、3、4・・・・・・」
あれ? 止まったはずの時間が動き出したぞ? ということになる。
ほら。時間はまだまだ止まっていない。
これは一体、どういうことなのだろう。
ウルトラストップウヴォッチで、一体なにが止まったのだろう。
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「時間が流れる」は正しいか?
ウルトラストップウォッチで止まったものとは、一体なんなのだろう。
ドラえもんたち以外の全ての物体の動きが止まったことで、確かになんとなく時間が止まったような感じはする。
ところが、彼らが数を数え始めた途端、時間がとまった世界で、再び新たな時間が流れ始めてしまう。
この問題は、仮にドラえもんたちの「動き」も止まったとしても、すんなり解決されるワケではない。
「ありとあらゆる物体の動きがとまった」ということはできたとしても、それがそのまま「時間が止まった」になるワケではないからだ。
ややこしいのはそれだけじゃない。
そもそも「時間がとまる」という表現の中には、いつか「再び動きだす」可能性が暗に含まれている。
ウルトラストップウヴォッチで「時間が止まる」のは、具体的に何分間、あるいは何時間なのだろうか。
「30分間時間が止まる」とは、どういう状況なのだろうか。
「時間がとまる」という表現は、やはり何かしらの問題をはらんでいいるらしい。
とすると、次のように考えられないだろうか。
「“時間が止まる”は、そもそも間違った言葉の使用である」
もっといえば「“時間が止まる”は、言葉として無意味である」と。
そもそも、時間というのは「止まる」とか「動く」とかいった述語で語れるものではないのだろう。
これと同様のことが“時間が流れる”という表現にもあてはまる。
「時間」は「動く」ものでも「止まる」ものでも「流れる」ものでもない。
にもかかわらず、僕たちは、
「時間が動く」も
「時間が止まる」も
「時間が流れる」も、容易にイメージが出来てしまう。
だけどこのとき「何」が動き、「何」が止まり、「何」が流れているというのだろうか。
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「時間」と「空間」はどんな関係?
なぜ僕たちは、普段から「時間は流れるもの」と口にし、実際に「時間が流れる」というイメージを抱いているのか。
結論から言おう。
僕たちは「時間」を「空間」的に捉えているのである。
そのことを考える上で、実は「ウルトラストップウォッチ」は僕たちに大きな示唆を与えてくれる。
「ウルトラストップウォッチ」で止まったのは「時間」ではなく、あくまでも「空間」であった。
- 敵の監視員の動きが止まる。
- 舞い降りる葉っぱの動きが止まる。
- 道路を走る車の動きが止まる。
- そして時計の針の動きが止まる。
これらが、僕たちがぼんやりと考える「時間が止まる」の正体である。
そして、その実態はといえば「空間が止まる」以上のものではない。
僕たちが口にする「時間が流れる」という表現も、間違いなくこの「時間」と「空間」の関係に根ざしている。
たとえば、あなたは今ボートに乗って、都会に流れる川を下っているとする。
その主観的な情景を思い浮かべてみて欲しい。
両岸に見える町並みは、ボートが下るにつれ次第にあなたの後方へと過ぎ去っていく。
さきほどまで遠くに見えていたビルも、いつしかあなたの眼前に迫っている。
それもやがて、あなたの後方へと過ぎ去っていく。
川を下っていくにつれ景色はどんどん移り変わり、過ぎていった景色をあなたは二度とみることができない。
うすうす勘づいていると思うが、これは「時間」の例え話である。
「ボートにのるあなた」は現在を表し、「過ぎ去っていった景色」は過去を表し、「迫り来る景色」は未来を表し、そしてあなたが下っている「川」は「時間」を表している。
遠くに見える「未来」はゆっくりとあなたに迫ってきて、やがて「過去」となって遙か遠くへと消えていく。
こんな風に僕たちは「時間」について理解している。
楽しい時間があっという間に「流れ」ていってしまうのも、苦しい時間がゆっくり「流れ」続けるのも、とりもなおさず、僕たちが「時間」を「川」のような「空間」として認識しているからにほかならない。
僕たちは「時間」を「空間」として、「変化するもの」として把握しているのである。
実際のところ、僕たちは時間の経過を「時計の針の動き」で理解しているし、時の移ろいを「自然の変化」で実感している。
「情景」が変わっていくから、つまり「空間」が変化していくから、僕たちは「時間」という感覚を持つことができるのだ。
さて、ここであなたに質問を。
「では過ぎた過去は、この世界のどこにいったのだろう?」
「やがて来る未来は、この世界のどこにあるのだろう?」
「過去や未来は、世界のどこかに保存されているのだろうか?」
これらの問いは、ちょうど次の問いに集約される。
――過去や未来は、果たして存在しているのだろうか――
これらに明快に答えられる人はきっといない。
そして、この問いに応えること、それが「時間を哲学する」ということなのである。
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存在するのは「今」だけ?
「未来はどこから来て、過去はどこへ行くのか」
「過去や未来は、そもそも存在しているのか」
これらが、「時間」にまつわる問いだった。
たとえば、あなたに「来週の日曜日」に「友人と旅行を行く」予定があったとしよう。
この「来週の日曜日に友人と旅行へ行くこと」は、いうまでもなく「未来」の出来事である。
ところが、今、この世界のどこをどう見渡してみても「来週の日曜日」も「友人との旅行」も見つけることはできない。
となると「未来」とは一体どこにあるのだろう。
かろうじてあるのは、「来週の日曜に友人と旅行に行くだろう」という「予期」だけであるが、それは結局、現在におけるあなたの「意識」に過ぎない。
「未来」そのものは、この世界のどこにも存在していない。
視点を変えてみよう。
友人との旅行を無事に終えた、その翌週のことだ。
あなたにとって、「先週の日曜日に友人と旅行へ行ったこと」は「過去」の出来事である。
ところが、今、この世界のどこをどう見渡してみてもを「先週の日曜日」も「友人との旅行」も見つけることはできない。
となると「過去」とは一体どこにあるのだろう。
かろうじてあるのは「先週の日曜日に友人と旅行に行った」という「記憶」だけであるが、それは結局、現在におけるあなたの「意識」に過ぎない。
となると、結局のところ、「過去」や「未来」は、この世界のどこにも存在はせず、あるのは「今」だけということになる。
「過去」や「未来」というのは、つまるところ「今の意識の状態」なのである。
以上が、「過去」や「未来」について、僕たちが「確実に」語れることである。
なにをあたりまえのことを、と思われるかもしれない。
だけど、普段の僕たちは、「過去」や「未来」の存在の確かさを信じて疑わない。
――未来はどこからかやってきて過去となり、過去はどこかへと過ぎ去っていく――
こんな感じで、僕たちは「過去」や「未来」について理解している。
しかも、その根底には「時間は流れるもの」といったイメージがあるワケだが、「時間が流れる」ことの不可解さについては、さきほど確認したとおりである。
結局「過去」や「未来」の存在を確かめることは、僕たちにはできない。
過去や未来について思うのも、過去や未来について語るのも、結局のところ「今」なのである。
じゃあ、存在するのは「今」だけってことだね?
そんな風に結論できそうなのだけど、ちょっと待ってほしい。
ことはそんなシンプルにはいかないのである。
なぜなら、「今」というのは、そもそも「過去」や「未来」があって、はじめて成り立つ概念だからだ。
ちょうど夏や秋や冬があって「春」が成り立つように、過去や未来があって「今」が成り立つのである。
いや、もっといえば、春や夏や秋や冬があって「季節」がなりたつように、過去や未来や今があって「時間」が成り立つのである。
とすると、「時間」とは何を表す言葉で、「今」とは何を表す言葉なのだろう。
「時間」とは、「今」とは、いったい何なのだろう。
僕たちが自明視しているこれらの概念は、かくも不可解なものなのである。
なお、「今」や「記憶」にまつわる議論は、以下の記事で詳しく説明している。
【 参考記事 世界は存在しない? ”独我論”をわかりやすく解説ー 】
【 参考記事 過去は存在しない? ”世界5分前仮説”をわかりやすく解説— 】
ぜひ参考にどうぞ。
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おわりに「哲学」は“薬”にならない
以上、哲学のテーマ「時間」をとりあげ、その主な議論や問題の所在について解説をしてきた。
「過去や未来はどこにもない」
突然そんなことを言われても、正直、僕たちの生活実感から大きくかけ離れているし、にわかには信じられない主張である。
もちろん「過去や未来はない」なんてが信じられなくてもいいし、信じる必要だってない。
ただ「時間」というのは、僕たちが思っている以上に不可解で、考えれば考えるほどグロテスクなものなのだ。
どうだろう。
今まで当たり前だと思ってきたこの世界が、途端によそよそしく感じられてこないだろうか。
こんな風に、「哲学」というのは本来、スリリングで、不気味で、怖ろしいものなのである。
さて、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
記事を読み終えたあたなは、ひょっとしてこんな風に感じたかもしれない。
いや、こんな問題、そもそも答えなんてでないし考えるだけ時間の無駄でしょ
はい、まったくもってその通り。
哲学なんてやったって、時間の無駄なのだ。
病気が治るわけでもないし、出世するわけでもない。
名声が手に入るわけでもないし、お金持ちになれるわけでもない。
いや、なんならこんなメンドクサイことを考えていたら 友だちが減るかもしれないし、彼女にフラれるかもしれないし、社会的な信用を失ってしまうかもしれないのだ。
哲学は「毒」にこそなれ、「薬」になることはない。
だけど、哲学することは、上記の通りとってもスリリングであるし、おもしろいと僕は思う。
というより僕自身、やっぱり不思議でならないのだ。この「世界」ってやつが。
「世界って本当は存在していないんじゃないの?」とか
「時間が“流れる”っていうけど、一体何が流れてるの?」とか
「僕が死んだら、僕は、この世界はどうなるの?」とか
少しでもそうした問いにとらわれてしまったことがある人にとって、哲学はとっても親和性のある世界だ。
この記事を読んで共感していただいた方は、ぜひブログ内の【哲学】の記事を参考にしていただきたい。
あなたの“ワクワク”や“ゾクゾク”のお供になれたなら、とても嬉しく思う。
オススメの本
『哲学の謎』(野矢茂樹)
この記事の多くは、本書を参考にしている。
筆者の野矢茂樹は、日本の哲学界を代表する哲学者。
著書が多く、読みやすいものから本格的なものまで幅が広い。
本書は、中でもとても読みやすい一冊で「対話形式」なので、議論がスッと頭に入ってくる。
小難しい哲学用語は一切出てこないが、本書を読めば「哲学の魅力」を理解することができるはず。
100の思考実験(ジュリアン・バジーニ)
タイトルの通り、100の哲学的な「思考実験が」が収められている。
「思考実験」というのは、現実にはあり得ない状況を想定し、その状況を突き詰めて考えていく「頭の中での実験」のことだ。
中にはデタラメで馬鹿げた実験もあるのだが、それらは例外なく僕たちの「あたりまえ」を覆す可能性を秘めている。
本書は、そんな哲学的議論をコンパクトにまとめ、議論の問題点や、様々な立場を整理してくれるので、哲学初心者から中級者まで楽しめる一冊となっている。
1項目が数ページで完結し、読み切りになっているのも嬉しい。、
超オススメ。
「時間」を哲学する(中島義道)
筆者の中島義道は、多くの著書を世に送り出し、その歯に衣着せぬ物言いから「戦う哲学者」として有名である。
個人的に僕は日本の哲学者の中で、中島義道が一番好きである。
そんな中島氏による、本格的な時間論。
サブタイトルにもある通り「過去はどこに行ったのか」という問いに始まり、「未来はどこからくるのか」という問いにも挑んでいく。
ところどころ難解な部分はあるものの、総じて、超スリリングな論考で、目からウロコの連続である。
この記事で紹介した議論を、もっともっと深めてみたいと思う人におすすめの1冊だ。
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