遠藤周作と若松英輔
遠藤周作の遺言にこんなものがあるらしい。
オレが死んだら、2冊の本を棺に入れて欲しい。
その1冊は『沈黙』で、もう1冊が『深い河』だったという。
『沈黙』といえば、遠藤の代名詞ともいえる、キリスト教界に大きな影響を与えた問題作だ。
一方の『深い河』といえば、もちろん遠藤の代表作なのだが、その知名度は『沈黙』ほどではない。
のみならず、文学作品としての輝きも、残念ながら『沈黙』には及ばない。
それは遠藤の『深い河』執筆時の肉体的な衰えも大きな要因だったようだ。
遠藤自身、こう語っている。
荒削りのまま初稿を終えたが老齢の身で純文学の長編は正直へとへとになった。
(中略)
力わざで押し切ったため、文章に命が通っていない部分も多々あるだろう。『沈黙』のように酔わせない。
『『深い河』創作日記より』
では、なぜ遠藤は『深い河』を、自らの棺に入れてくれるよう頼んだのか。
その理由について、詩人で批評家の若松英輔氏は言う。
遠藤自身、作家としての自らの生涯は『沈黙』と『深い河』の2冊に収斂されていく、と感じていたのだろう、と。
そして、若松氏は『深い河』について
遠藤周作の「精神的な自伝」である
とも評している。
若松氏と遠藤周作との共通点は多い。
- 「カトリック」であること
- 「三田文学」で創作活動に取り組んだこと
- 「宗教」や「信仰」を語ろうとすること
- 「神秘」や「霊性」を生きようとすること
この記事でとりあげたいのは、若松英輔著『日本人にとってキリスト教とは何か』だ。
本書の論考は「遠藤周作の『深い河』から考える」という副題の通り、『深い河』を主なテキストとして採用している。
ぼくは遠藤周作の作品と出会い、大げさではなく人生が変わった。
これまで不可解で嫌悪の対象だった「信仰」の意味を、遠藤文学が教えてくれたのだ。
もちろん、それら作品の中には『沈黙』も『深い河』も含まれている。
そして、若松氏もまた、ぼくが敬愛する書き手の1人だ。
彼の著作に触れて、文字通り、ぼくの身体と心は震えた。
そんな若松氏が「遠藤周作」を、そして『深い河』を語った本書。
これは絶対間違いない!
という確信のもと手に取ったわけだが、その確信はやはり間違っていなかった。
以下、「書評」と銘打って記事をまとめていくが、内容は以下の通り。
- 神について
- 自己について
- 悲しみについて
- 信仰について
本書を読んで感じたことを、ぼくなりに言葉にしていこうと思う。
なお『深い河』についての考察記事も書いているので、もし良かったら参考にしていただけると嬉しい。
【 参考 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー 】
「神」について
『深い河』で描かれる「神」には、特定の名前を与えることはできない。
大津は「神と呼ぶのに抵抗があるなら、にんじんでも、たまねぎでも良い」という。
これは「神」を語る上で、特定の宗教的文脈は不要だということなのだろう。
ここで「神」に対して、日本人の肌感覚に最もあう言葉を与えるとすれば、ぼくは「いのち」だと思っている。
「いのち」は、遠藤が『深い河』で繰り返し使う言葉でもあるが、このときの「いのち」も特定の宗教に捕らわれない、すべての存在を包含する普遍的な「いのち」を意味している。
いのちは世界に偏在している。 (本書『日本人にとってキリスト教とは何か』P36より)
現象界におけるあらゆる存在には「いのち」が宿っている。
若松氏は、多くの著作の中で「いのち」について書いているのだが、それは時に「霊性」という言葉で表現されている。
森羅万象には「霊性」が宿っている。
それは「汎神論」ではなく、「汎在神論」と呼ぶべきものだ。
もちろん、ぼくたちにだって「いのち」は宿っている。
その「いのち」には、様々な文脈の中で、それぞれの名前が与えられている。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、それに哲学だってそうだ。
「神」「アッラー」「ヤハウェ」「ブラフマン」「如来」「絶対無」などなど……
そして、寺に生まれたぼくにとっての「いのち」は、きっと、たぶん「アミダさま」なのだ。
仏教では「一切衆生悉有仏性」といって、すべての存在には「仏性」が宿っていると説かれている。
ぼくの奥には「アミダさま」がいる。
だけど、ぼくはそのことに気づいていない。
めまぐるしい生活スピードに流されるまま、ぼくは「僕」として、つまり社会的な「個人」として、「いのち」から切り離された存在として、毎日を生きている。
遠藤は「生活」と「人生」とを区別している。
「社会」の中で「個人」を生きるのが「生活」であり、「内に宿るもの」と対話し「いのち」を生きることが「人生」である。
そして「人生」とは、実存的な「悲しみ」や「苦しみ」に直面したとき、初めて始まる。
遠藤は、とある著作の中でこんなことを言っている。
誰しもが、人生のどこかで経験しなければならない「悲しみ」というものがある。その「悲しみ」に直面したときに、本当の「人生」や、本当の「宗教」が始まるのだ。
ぼくはこの言葉を、出会ったあの日から ずっと心の中で温めている。
ぼくが通過してきた「悲しみ」は、きっとぼくにこう言い続けていた。
おまえがしたいことは、本当にそんなことなのか、と。
だけど、ぼくは、いつも「いのち」から遠ざかってばかりだった。
そしてそれは、いまも変わらない。
「自己」について
自分の内に宿る「いのち」に無自覚な状態を、仏教では「無明」と説いている。
『深い河』に登場する「美津子」は、その無明に苦悩する女性だ。
彼女は「本当の自己」を生きたいと願うが、「本当の自己」がなんなのか分からない。
彼女が自らを投影する「テレーズ」もまた、「本当の自己」を求めてもがき苦しむ女性だ。
そもそも「自己」とか「自分」とはなんなのだろう。
ぼくたちが「僕」とか「私」とか呼んでいる、その「自分」とはなんなのだろう。
イギリス経験論哲学の巨人ヒュームは、「自己とは感覚の束である」といった。
あるのは具体的で独特な「景色」であり「音」であり「匂い」であり「味」であり「痛み」である。
その中から「僕」を頑張って探してみるが、どこにも「僕」を発見することはできない。
あるのは、やは具体的で独特な「知覚」だけなのだ。
つまり、この世界に「僕」なんて、存在していないのだ。
とすれば、この「景色」を見ているのは一体「だれ」なのだろう。
この「音」を聞いているのは、この「匂い」をかいでいるのは、この「痛み」を感じているのは一体「だれ」なのだろう。
つまるところ、この世界を生み出しているのは、一体「だれ」なのだろう。
ぼくは、この不思議に捕らわれてしまったとき、ふいにそれは「神」なんじゃないか、とぼんやりと考えることがある。
こんな不思議な出来事が起きるとすれば、その原因は「神」の働きなんじゃなかろうか、と。
ユングは意識の奥に「集合的無意識」があると言った。
心の奥底で、あらゆる存在はつながっているというのだ。
本書においても触れられている。
フロイトは心を個人的に考察する傾向が強かったのに対し、ユングはその射程にも異なる考えを提示します。つまり、人間の心は、個人的なものであるだけでなく、時代、文化、あるいは人類の記憶と密接な関係があるのではないか。(本書P146より)
また、仏教の「唯識思想」において説かれる、「無意識」のさらに奥にある「アラヤ識」についても、こう書かれている。
仏教における「識」は、心的活動だけでなく、存在世界そのものの生起に直接的に関与すると考えられています。意識と存在が分かちがたく結びついている動的なもの、それが「識」です。アラヤ識はそのもっとも深い場所にあるものです。(本書P162より)
「自分」の意識の深奥にある「集合的無意識」も「アラヤ識」も、どちらも美津子が求めた「本当の自己」であり、存在に宿っているという「いのち」の別名なのだろう。
そして、この現象的世界を経験している「僕」の意識というのは、その「いのち」が生み出しているものなのだ。
「自己」とは「いのち」である、とするのが「汎神論」
「自己」には「いのち」が宿っている、とするのが「汎在神論」
この両者は全くの別物じゃない。
どちらも、ぼくたちに対して、
「自己」の中の「いのち」を見つめろ
そう訴えている点で大きな違いはないと、ぼくは思う。
「自己」ほど不可解なものはない。
「意識」ほど深いものはない。
遠藤周作はこういった。
アーラヤ識、つまり無意識領域こそ我執の母胎であると共に救いの場所でもあるのだ。
『私の愛した小説』より
若松氏は、この一節を引用した後で、次のような説明を加える。
アラヤ識は我執と苦しみの母胎でありながら同時に、救済の現場である。闇や罪の淵源でありながら、救いの源泉でもあるというのです。罪業か救いかの二者択一ではなく、罪業はそのまま救いの土壌になる。罪業と救いは一体だといって良いかもしれません。(本書P164より)
「自己」は「悲しみ」の現場であると同時に「救済」の現場でもあるのだ。
「悲しみ」について
「悲しみ」は『深い河』においても重要なタームだ。
それを象徴するのが「チャームンダー」という苦しみの女神だ。
若松氏は、この神を「共苦の神」と呼び、「同伴者である神」と呼ぶ。
人間が苦しみ、悲しんでいるとき、神もまた共に苦しみ、悲しんでいる。
そして人間の悲しみは、その悲しみを悲しむ存在によって癒やされる。
浄土真宗の僧侶、金子大栄の言葉にこんなものがある。
悲しみは 悲しみを知る 悲しみに救われ 涙は 涙にそそがれる 涙にたすけらる
誰かが悲しんでいるとき、その人のことを思い悲しんでいる存在が、きっといる。
そんな風に共に悲しむ存在に気づいたとき、自分が1人ではないことに気がつく。
どんな苦しみも悲しみも、必ず孤独と隣り合わせにある。
その孤独に寄り添ってくれるのは、明るい声がけでも、力強い励ましでもない。
「わたしは、あなたといっしょに、悲しんでいる」
そういう、悲しみの連帯を告げる声である。
だから「悲しみ」は、相手を「愛しむ」ことと同義なのだ。
若松氏がその著書でいつも引用する柳宗悦の言葉がある。
ぼくが大切にしている言葉でもある。
古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。信仰は慈しみに満ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。それどころか「悲母阿弥陀仏」なる言葉さえ有。基督教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶ野のにLady of Sorrowsの言葉を用いた。「悲しみの女」の義である。
『南無阿弥陀仏』より
神も、マリアも、観音も、阿弥陀如来も、すべて人間存在を悲しみ、人間存在を包み込む世界である。
それらは全て「永遠のいのち」の別名であり、『深い河』において「たまねぎ」と名付けられたものだ。
そしてその「永遠のいのち」は、人間を悲しみ、そして愛しんでいる。
たとえば浄土真宗では「阿弥陀如来」の心を「大慈大悲」の心と呼ぶ。
それは、同じく柳宗悦の次の言葉と通じるところだ。
悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈しみでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。
『南無阿弥陀仏』より
遠藤が『沈黙』で描いた神もまた、「慈愛の神」であり、「共苦の神」だった。
「踏め」
神はロドリゴに言ったあと、こう続ける。
「お前が苦しんでいるとき、私もそばで苦しんでいる。最後までお前のそばに私はいる」
遠藤周作もまた「悲しみ」に「救済」の本質を見ていた。
「死」について
若松氏は「死」についてこう述べる。
死を経れば生命は消える。これが身体の論理です。だが、「いのち」は死を経ても生き続ける。(本書P60より)
死はすべての消滅ではない。
身体は滅んでも「魂」は生き続ける。
それはまるで冬から春に移り変わるように、そして円環する四季のように。
肉体の「死」は、あらゆる存在にとって、新生するための儀式のようなものなのだろう。
「冬」は終わりの季節です。しかし、それは魂としての存在に向かって純化しつつあるともいえる。そこで人は、真実を吐露するようになる。切なる者を求めるようになる。そして、人生の冬に訪れる死は、この世での生活の終わりであるだけでなく、もう一つの世界での新生、すなわち「春」を宿してもいるというのでしょう。(本書P58より)
「死」とは「新生」
とすれば、死んでいった者は、いなくなったわけではない。
彼らは、これまでとは違った形で実在している。
そして、生き残ったぼくたちの存在を、共に悲しんでくれている。
その悲しみの声を聴きとろうとするとき、ぼくたちは「死者」とともに生きることができる。
彼らの声は、肉声ではないし、感覚器官としての「耳」で拾うことはできない。
それらは「心耳(しんじ)」で聞くものなのだ。
耳は声を瞬間で聞き取ります。むしろ、耳は瞬間の音しかとらえることはできない。しかし「心耳」は違います。「心耳」は、無音の声を、ある持続の中で受け止めます。それは無音の響きとなって私たちの人生を流れ続けるといってよいかもしれません(本書P77より)
死者や神の声を聴くために、ぼくたちには、ある「持続する時間」が必要なのだ。
その持続する時間は、ときに「孤独」で「悲しい」時間なのかもしれない。
若松氏は「死者の声」と「孤独」の関係について、こんなふうに言っている。
死者は、その人が誰かといるときに、生活に介入することはなく、その人の心が、ある種の孤独を感じたとき、そこにそっと寄り添う。(本書P232より)
愛する人を失って、悲しみの底に沈むとき、その悲しみの中に彼らは実在している。
「悲しみ」の中で、愛する者は生き続ける。
「悲しみ」の中で、ぼくたちは愛するものと繋がり続ける。
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「信仰」について
『深い河』の登場人物で、特定の信仰を生きるものは「大津」だけだ。
それ以外の人たちはみな、特定の宗教の信者ではない。
だけど、彼らは決して「無宗教」な人間ではない。
彼らはそれぞれの「人生」をバックグラウンドにして、内なる「霊性」に目覚め、インドへやってきたからだ。
「宗教」とは、文字通り「宗となる教え」という意味だ。
誰が、何を「宗」として生きるか。
何を「人生」の中心にすえようとするか。
それは人によってそれぞれであるし、対象は必ずしも既存の宗教である必要はない。
むしろ、宗教とは「カタログ」から、出来合いのものを一つ選ぶようなものではない。
その人の「人生」や、もっと言えば「実存」による促しによって選び取ったものであり、そういったある種の「切実さ」がなければならないのだろう。
ただし、ぼくはこう書くことで宗教のハードルをあげたい訳ではない。
むしろ、ハードルなんて、本来ない。
分厚い書物を読む必要も、難解な教義を理解する必要も、厳しい身体的修行を乗り越える必要もない。
誰だって、あるとき、ある場面で、人生の悲しみに直面すれば、自ずと「宗教心」に目覚めるのだ。
『深い河』の登場人物達は、そのことを物語っている。
そして「信仰」に、100%の信仰などはない。
本書でも、遠藤周作の言葉が引用されている。
「信仰というものは、九十九パーセントの疑いと、一パーセントの希望だ」といったのはフランスの有名なキリスト教作家ベルナノですが、私は本当にそうだと思うんです。疑いがあるから信仰なんです。浄土が思い描けないということが信仰がないっていうことじゃないんです。宗教に何の関心もない普通の人だったら、「浄土を思い描けないがどうしよう」などといわないでしょう。
『死について考える』より
信じることと疑うことは一つなのだ。
寺に産まれたぼくにとって「信仰」とは、すぐ近くにあるものだった。
それはぼくにとってとても居心地の悪いもので、「ナムアミダブツ」という七字の念仏も、ぼくには全く理解することのできないものだった。
いつしか「不可解」は「疑念」へと、「疑念」は「嫌悪」へと変わっていった。
だけど、ぼくはあるとき遠藤文学に出会い、そして「信仰」とは何かを教えられた。
「疑うこと」あるいは「嫌悪すること」から、信仰は始まるのだ。
そのことは、ちょうど『深い河』の美津子の姿に現れている。
「本当は神なんていないんじゃないか?」
その疑いそのものが、神との対話なのだろう。
それは『沈黙』におけるロドリゴの姿を借りて描かれてもいる。
「なぜ、こんなにも苦しいのに、あなたは黙ったままなのですか」
神との対話はそこから始まる。
しかも、神は決して黙っているわけではない。
「沈黙」のうちに、神の声なき声がある。
神の声なき声とは、「いのち」からのぼくたちに向けられている悲しみの声だ。
それは「大いなる悲しみ」とも呼べるものだ。
その「悲しみ」に、1パーセントの希望を持つこと。
それが「信仰」なのだと、遠藤は言っている。
「信仰」とは、まさに新潮文庫『沈黙』の想定のように、黒雲からもれ出るあわい光線に似ている。
闇の中にも光はある。
いや、闇があるから光は見える。
悲しみがあるから、救いはあるのだ。
終わりに
若松英輔氏の『日本人にとってキリスト教とは何か』を読んで、改めて多くのことを考えさせられた。
ここで書いてきたのは、本書を読んで感じたことはもちろん、これまでにぼくが考えてきたこととか、ふとしたときに考えることばかりだ。
それらは思いに任せて書きすさんだので、分かりにくい表現とか、突飛なたとえとか、唐突な引用とか、きっと読みにくい文章だったと思う。
論理的な飛躍も多々あったに違いない。
ただ、ぼくたちはいつか「論理」を越えなくちゃいけないのだと思うこともある。
若松氏の文章に触れて、その思いはいっそう強くなった。
「書く」とは、「語りえぬもの」を語ろうとすることなのだと、ぼくは若松氏から教わった。
そして、「語り得なかったこと」に真実があるということも、彼から学んだ。
だから、ぼくはこれからも「読む」そして「書く」という、その営みを続けていこうと思う。
それは内なる「本当の自己」からの要請のような気がするし、そこに内なる「本当の自己」との出会いがある気がするからだ。
オススメの本を紹介
『霊性の哲学』 (若松英輔)
ぼくが若松氏に出合った本。
読んだときは、心が震える思いだった。
内なる「霊性」に目覚め、内なる「いのち」を生きることが「人生」であるならば、ここにはその「人生」の姿が描かれている。
そしてその「人生」を生きようとした人々は、古今東西に存在している。
『悲しみの秘義』(若松英輔)
人間にとって、もっとも大切な感情は「かなしみ」なのかもしれない。
この本は、その「かなしみ」が持つ意味が、美しい言葉でつづられている。
「かなしみ」は「悲しみ」であり「愛しみ」であり「美しみ」である。
ぼくはこの本から、そのことを教わった。
『死者と霊性』 (末木文美士)
「死者」を取り戻すこと。
「死者」とともに生きること。
こんな時代だからこそ、ぼくたちは、きちんと死者の声に耳を傾けなければならないのだと思う。
本書もまた、そんな問題提起のもと、5人の知識人が語り合う。
若松英輔氏も参加しているし、短い論考も寄せている。
この本の書評を以前書いているので、こちらを参考にしていただけると嬉しい。
【 参考 書評・感想『死者と霊性』(末木文美士 編)―人文学に光を― 】
『死について考える』 (遠藤周作)
遠藤周作の「死生観」「宗教観」「倫理観」がストレートに書かれたエッセイ。
晩年に書かれたもので、彼の「人生観」もまた色濃く表れている。
「信仰とは九十九パーセントの疑いと、一パーセントの希望」
この言葉は、本書に収められている。
『沈黙』(遠藤周作)
「神の声なき声」
「悲しみを悲しむ声」
遠藤周作は、本書で「母なるキリスト」の姿を描き、当時のキリスト教界に波紋を広げた。
ただ、ここに書かれた「神」の姿こそ、ぼくは本当だと思っている。
良い子を救い取り、悪い子を罰するのが「神」ではない。
どんなに出来が悪くても、「神」は自分の子を全て受け止めるはずなのだ。
『深い河』とあわせて読めば、遠藤周作の「宗教観」がより理解できると思う。
『沈黙』については、以前に考察記事を書いたので、こちらも参考にしていただけると嬉しい。
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