「人生の尊さ」を描いた良作
2018年、第158回芥川賞で、史上2番目の年長記録で受賞したのが、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』だ。
若竹千佐子が小説を書き始めたのは55歳のこと。
夫の突然の死がきっかけだったという。
小説講座に通いつつ地道に執筆を続けた彼女は、63歳のときに『おらおらでひとりいぐも』で文藝賞を受賞し、同作で芥川賞を受賞した。
若竹千佐子は、本作について次の用に語っている。
夫の死をきっかけに発見したことをどうしても書きたい。これを書かずには前に進めないという気持ちで書いた作品です。
『週刊文春』インタビューより
こう語るように、本書には、最愛の夫を亡くした女性の姿が印象的に描かれている。
生きることの「悲しみ」や「孤独」
そうしたものを見つめつつ、人生の尊さを温かく描いた本作は、多くの人の胸を打つ良作だと思う。
実際に、僕も本書を読んで涙を流したクチである。
さて、この記事では、そんな『おらおらでひとりいぐも』について、解説と考察を行っていく。
- なぜ東北弁で書かれているのか
- タイトルにどんな意味が込められているか
この2つを大きなテーマにして、解説と考察をしていこうと思う。
記事には大々的なネタバレを含んでいるので、未読の方はくれぐれも気をつけてください。
それでは、お時間のある方は、最後までお付き合いください。
「本当の人生」を求めて
戦後の作家、遠藤周作の言葉にこんなものがある。
生活があって人生のない一生ほどわびしいものはない。
生活? 人生?
これらは一体何を表しているのか。
おそらく、これを読んでいる多くの人も、大なり小なり「生活」に追われていると思う。
その日その日を生き延びるために、あくせくと働く毎日。
常識に振り回され、社会規範にしばられ、世間体にがんじがらめにされている。
人からの評価や視線にビクビクしながら、時に自分を偽り、時に自分の本心にフタをする。
そうやって「自分の心」と引き換えに僕たちが守っているもの、それが「生活」だといっていい。
本書『おらおらでひとりいぐも』の桃子もまた、そんな「生活」を守るために「自分の心」を犠牲にして生きてきた女性である。
桃子は、「人間の心」について次のように言う。
人の心には何層にもわたる層がある。(中略)こうせねばなんね、ああでねばわがねという常識だのなんだのかんだの、自分で選んだとみせかけて選ばされてしまった世知だのが付与堆積して、分厚くなった層があるわけで、つまり地球にあるプレートどいうものはおらの心にもあるのでがすな。(単行本P16より)
人は誰もが「生活」を守るため、知らず知らずのうちに分厚い「心の層」を形成する。
その層の一つ一つは、いわゆる「常識」とか「社会規範」といった名前で呼ばれるものだ。
当然それらは、地位や立場によって性格も異なってくる。
そのことを桃子は、次のような言葉で述べている。
主語は述語を規定する(P16より)
子は〇〇しなければならない
妻は〇〇しなければならない
夫は〇〇しなければならない
主語が変われば、当然、常識や行動規範も変わっていく。
その行動規範を採用することは、時に、自分を偽ることにもなる。
自分を偽れば偽るほど「本当の自分」は、心の奥底に追いやられていく。
こうやって生きていくこと、それを遠藤周作は「生活」と呼ぶのである。
では、それに対して「人生」とはいったい何なのかというと、
「生活」から解き放たれ、「本当の心」を取り戻そうとすること
ということができるだろう。
あるいは、「本当の自分」を生きようとすること、といってもいい。
そう考えてみれば、本書『おらおらでひとりいぐも』という物語は、「生活」のために自らを犠牲にしてきた女性が「自分の人生」を取り戻そうとする物語だということができるだろう。
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「東北弁」にこだわる理由
ここからは「なぜ桃子は東北弁で自問自答するのか」という問いに答えたい。
さっそく結論から言うと、
「東北弁を取り戻すことは、桃子が本当の自分を取り戻すことにつながるから」
ということになる。
繰り返すが、本書『おらおらでひとりいぐも』は、自らを抑圧してきた女性が、「本当の自分」を取り戻そうとする物語である。
作中で、桃子は「本当の自分」を「最古層のおら」と呼んでいる。
常識や社会規範といって層に埋もれてしまった、奥の奥の根源的な層。
それこそが「本当の自分」であるというワケだ。
そんな「最古層」を掘り起こす術、それが、桃子にとって「東北弁」だったのである。
東北弁とは最古層のおらそのものである。もしくは最古層のおらを汲み上げるストローのごときものである(P15)より
では、なぜ、東北弁は「おらそのもの」だといえるのか。
ここでもう一度、桃子の「主語は述語を規定する」という言葉を思い出したい。
主語(自分の立場)は、述語(ああすべき、こうすべき)を規定する。
子には子の社会規範があり、妻には妻の社会規範があり、母には母の社会規範がある。
それぞれの社会規範を採用することは、それに見合った「行動」だけでなく、「思考」、そして「言葉」を採用することでもある。
桃子は24歳で、故郷を捨てて上京してきた。
以来、彼女は何度も「わたし」という主語を採用し、「標準語」を使ってきた。
そのことは、彼女にある種の罪悪感や背徳感を与えてきたという。
わたしと言えばいいかというと、問題はそんたに簡単でね。その言葉を使ったとだん、気取っているような、自分が自分でねぐ違う人になったような、喉に魚の骨がひっかかったような違和感があった。(P18より)
このように「わたし」を名乗り、標準語を話す度に、桃子は「自分が自分でなくなる」感覚を覚えている。
それだけでなく、桃子自身標準語を話すことは「一種の踏み絵」であったとも言っている。(P18より)
つまり、桃子にとって「標準語」を話すことは、本当の自分を冒涜する「裏切り行為」だったのである。
「わたし」を名乗り「標準語」を話し続けるかぎり、本当の自分を取り戻すことはできない。
だからこそ、老境にさしかかった桃子は、「東北弁」にこだわっているのだ。
東北弁を取り戻すことは、常識や社会規範に侵される以前の「本当の自分」を取り戻すことになるからだ。
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「孤独」と「悲しみ」の意味
『おらおらでひとりいぐも』には全編を通じて、主人公桃子の「孤独」と「悲しみ」が描かれている。
おらは思い知らされた訳だよ。生ぎでいぐのはほんとは悲しいごどなんだと。(P22より)
では、一体、何が桃子に「生きることの悲しみ」を思い知らせたのか。
それは、夫「周造」の死、である。
周造、逝ってしまった、おらを残して
周造、どこさ、逝った、おらを残して
うそだべうそだべうそだべうそだどいってけろ(P85より)
こうした悲しみの中で桃子が発見したこと、それは、
「人はどんな人生であれ、孤独である」
ということだった。
桃子は次のようにも言う。
人は独り生きていくのが基本なのだと思う。(P98より)
こう言う桃子の生活は、実際のところ、とても孤独だ。
それは冒頭の「ねずみの音」のシーンにも良く現れていて、静寂を恐れる桃子はねずみが鳴らす雑音にさえ孤独を慰めようとしている。
そうした生活の中で深めた桃子の実感が
「人は誰でも孤独である」
という言葉に表れている。
ただ、本書『おらおらでひとりいぐも』は、そんな「孤独」や「悲しみ」に、積極的な意味を与えようとしている。
というのも、桃子が「本当の自分とは何か」といった自問自答を繰り返すことができるのは、とりもなおさず、彼女の「悲しみ」と「孤独」が契機になっているからだ。
親が死に、子が独立し、伴侶と死別して、桃子は孤独になった。
それは確かに、桃子にとって耐えがたい悲しみや苦しみを与えた。
だけど見方を変えれば、それは桃子が「生活」から解放されたということでもある。
人間の「人生」というのは、「生活」の先にある。
孤独と悲しみを経験して、人は「本当の自分」を生きることができるようになる。
そして「本当の自分」を生きることで、人は自分を救うことができる。
桃子は言う。
どんなに近しくてもやはり自分ではない、他者である。(中略)桃子さんは自分のために生きたいと願うようになった。桃子さんをどんなに責めさいなむ声がきこえても、もう引き返せないし、周造、おらはやっぱり引き返さない。(P96より)
これまでの桃子は、ずっと「誰かのため」に生きてきた。
母のため
子のため
夫のため
だけどそれは「本当の自分」を抑圧することでもあった。
良き子どもとして
良き親として
良き妻として
そうやって生きてきた。
だけど、この手にいったい何が残ったか。
子は独立し、自分を疎み、そして伴侶はあの世へ去った。
自分は深く悲しんだ。孤独になった。
だけど、孤独と悲しみは、自分に「人生」を教えてくれた。
誰かのためではなく、自分のために生きることの大切さを教えてくれた。
もはや何人たりとも、それを止めることはできない。
信頼していようが、愛していようが、血がつながっていようが、他人は他人だ。
彼らは決して、自分を救ってくれはしない。
最後の最後に自分を救うのは、他ならない自分自身なのだ。
桃子が「東北弁」について考えるのも、「本当の心」を取り戻そうとするのも、「最古層のおら」を生きようとするのも、すべては孤独と悲しみが可能にしてくれたことだった。
そして、その孤独と悲しみは、誰しもがいつか必ず経験しなければならない類いの孤独と悲しみなのだ。
とすれば、僕たちが人生で経験する悲しみや孤独には、きっと大きな意味があるのだろう。
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「心の故郷」と「八海山」
故郷を捨ててきた桃子が繰り返し見る夢、それが「八海山」の夢だった。
この八海山は、桃子の「心の故郷」の象徴だといっていい。
たとえば、八海山に対する桃子の思いは、次のように語られている。
もう現実になんのとっかかりも持たない、浮遊した根無し草のようなおらであると思っていた。でも違う。帰る処があった。心の帰属する場所がある。無条件の信頼、絶対の安心がある。八海山へ寄せるこの思い、ほっと息をつっき、胸をなでおろすこの心持ちを、もしかしたら信仰というのだろうか。(150より)
24歳で故郷を捨てた桃子は、都会の片隅であくせくと生きてきた。
自分をいつわり、本心に蓋をして、生活に追われ続ける日々。
子どものため、夫のため、自分は良き母であり、良き妻であろうとした。
そうして存在をかけて守ってきたものは、今の桃子の手元にはない。
子は独立し、夫は死んでしまった。
そうした絶対的な孤独の中にある桃子は、それでも自分の「居場所」がなんであるかを予感している。
それが「八海山」だった。
ずっと桃子のうちにあった「心の故郷」とでもいうべきものである。
こうした「心の故郷」を桃子に強烈に自覚させたのは、夫周造の死だった。
亭主が死んで初めて、目に見えない世界があってほしいという切実が生まれた。なんとかしてその世界に分け入りたいという欲望が生じた。(P114より)
ここでいう、「目に見えない世界」というのが、八海山に象徴される世界、言わば「心の故郷」だといっていい。
この「目に見えない世界」について、物語の後半では桃子の実感が繰り返し繰り返し語られている。
八海山に寄せる思いはゆるぎない。そうだとしても、神だの仏だのそんな言葉は使いたくない。では、なんというか。おめ。おらに対するおめ。(中略)二つの間に何の隔たりもない。二つの間に介在する何もない。(P151より)
おめはただそこにある。何もしない、ただまぶるだけ。見守るだけ。
(中略)
おらはおらの人生を引き受ける。
そして大本でおめに委ねる。
引き受けること、委ねること、二つの対等で成り立っている、おめとおらだ。(P151より)
これらをまとめると、桃子にとって「目に見えない世界」は次のようになる。
- 八海山に象徴される世界
- 桃子が帰るべき世界
- 桃子に安堵を与える世界
- 桃子が全存在を委ねられる世界
- 桃子を見守っている世界
- 桃子と隔たりのない世界
こうした世界が、桃子が求める「目に見えない世界」だという。
そして桃子は、この世界に自らの存在を「委ねる」ほどの信頼を持っている。
桃子は否定をしているが、これは一つの「信仰」の形だと言えるだろう。
確かに「神」とか「仏」といった言葉を桃子は使っていない。
つまり、彼女は特定の宗教の文脈を持ち合わせてはいないのだ。
だけど、宗教心というのは、
「自己を超える存在を求める心」
だということができる。
そう考えると、ここに桃子の一種の「宗教心」が現れているといえるのではないだろうか。
老境に差し掛かり、深い孤独にある桃子は「自分を委ねられる世界」を志向している。
そして、ここにタイトルである『おらおらでひとりいぐも』の本質が表れている、と僕は考えている。
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「おらおらでひとりいぐも」の意味
さて、最後に、本書のタイトル『おらおらでひとりいぐも』の意味について考えて、この記事をおしまいにしたい。
まず、この言葉は宮沢賢治の詩『永訣の朝』の一節であると言われている。
この詩は、賢治が詩に逝く妹「とし子」を看取った時のことを詠んだものだ。
その詩の一節に「Ora Orade Shitori egumo」というフレーズが見られる。
これは、死に逝くとし子が呟いた言葉だと言われていて、標準語に直すと、
「私は私で一人でいきます」
という意味になる。
とし子がこの言葉に託した意味は分からない。
ただ言えるのは、この世との別れを意識したとし子が呟いた「最後の言葉」であるということだ。
そして、ここには何かとし子の「決意」のようなものが滲み出ている。
もちろん僕はこれを「とし子」の「信仰告白」だと即断することはしない。
だけど、どこか決然として、従容として「死」を受け入れようとするとし子の思いが表れていると思うのだ。
本書『おらおらでひとりいぐも』は、このとし子の言葉が下敷きとなっている。
では、老境に差し掛かった桃子は、いったいどんな意味をもって、この言葉を用いたのか。
もう今までの自分は信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。(P115より)
ここには明らかに、桃子の「目に見えない世界」への志向が表れている。
「私は私ひとりで、この信頼できる世界へ行きます」
本書のタイトル『おらおらでひとりいぐも』には、こうした桃子の決意が表れている。
確かに自分は孤独だ。
いや、ずっと孤独だった。
ずっと、誰かのために生きてきた。
だけど、これからは違う。
私を見守ってくれる存在がある。
私には帰って行ける場所がある。
あとはそこへ帰って行くだけだ。
そこに私はたった一人で帰って行く――
そうした桃子の決意と信頼、そして安堵が
「おらおらでひとりいぐも」
という言葉に表れているのだろう。
桃子は確かに孤独だ。
そして拭い去れない悲しみを抱えている。
だけど、その孤独と悲しみがあるからこそ、桃子には帰って行ける場所があるのだ。
そのことに気が付いた桃子は、声高らかに笑う。
あの世に繋がる通路は桃子さん自身の中にあるというのか、そこまで考えて、桃子さんはのどの奥でひゃっひゃと声にならない声をあげて笑う。何如たっていい。もはや何如たっていい。もう迷わない。この世の流儀はおらがつぐる。(P116より)
この時、桃子は生まれて初めて「自由」と「自立」を手に入れたのだと僕は思っている。
本書は、人間の人生における「孤独」と「悲しみ」を深く見つめた作品だ。
それでいて、読後に温かな余韻が残るのは、「孤独」と「悲しみ」があるからこそ、人は自由と自立を手に入れることができるという事実を物語っているからだ。
――人間には「最後に帰って行ける場所」というのが必ずある。
そうした作者の予感があるからこそ、物語はいっそう輝きを見せるのだと、僕は思っている。
以上で『おらおらでひとりいぐも』の解説を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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