はじめに「本作の2大テーマ」
森鴎外の『高瀬舟』は、中学校の教科書にも掲載されている有名な作品だ。
一般的に、本書のテーマは、
- 知足
- 安楽死
この2つと言われている。
とはいえ、これらがどのように問題視されているのかは、一読しても案外分からないもの。
そこで、この記事では この2つのテーマについて 分かりやすく解説をしようと思う。
また、『高瀬舟』と、その元になった作品『翁草』の違いに注目して、森鴎外の「創作の動機」についても考えてみたい。
お時間尾あるかたは、ぜひ最後までお付き合いください。
登場人物
喜助 …住所不定で親類のない30歳ほどの男。幼い頃に両親を亡くし、その後は弟と二人で暮らしていた。ある日、弟が自殺を図り苦しんでいるところに遭遇し、弟から強く懇願されるまま弟にとどめを刺し、“殺人”の罪で高瀬舟に乗る。おとなしく穏やかな気質を持ち、「これまでの生活に比べれば、流罪生活のほうが恵まれているに違いない」と、晴れやかな気持ちでいる。
庄兵衛 …初老の下級役人。高瀬舟で罪人を護送する役を務めている。倹約生活を強いられつつ、女房、子供四人、年老いた母親を支えている。罪人なのに晴れやかでいる喜助を不可解に思い、喜助の心の内を問いただす。
喜助の弟 …兄の喜助と2人暮らしをする中、病気で倒れる。病が治らない絶望と、兄に負担をかけていることへの罪悪感から頸動脈を切り自殺を図る。しかし、うまく死にきれず苦しむ。兄喜助に「はやく楽にしてくれ」と懇願し、最後は兄の手により絶命する。
あらすじ(600字)
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作品テーマ①「知足」
“知足”はとんでもなく難しい
高瀬舟のテーマの1つ、それが「知足」である。
知足というのは「足るを知る」ということ。
つまり、「現状に心から満足できる」と言い換えることができる。
と、こう聞いて、あなたはどんなことを感じるだろうか。
「自分は現状に十分満足してます!」
と即答できる人は、おそらくあまりいないのではないかと思う。
きっと、多くの人は大なり小なり、こう思っているのではないだろうか。
「せめて、あともう少し勉強ができれば……」
「せめて、あともう少し収入があれば……」
あるいは、
「せめて、信頼できる友人がいてくれれば……」
「せめて、理解のある恋人がいてくれれば……」
「せめて、ムカつく上司がいなくなってくれれば……」
とか。
もしも、あなたが、先の僕の質問に対して、
「現状に満足しています!」
と自信をもって答えることができたのだとすれば、それはとても尊いことだ。
きっとあなたには
「十分な収入」とか
「快適な居住環境」とか
「心地よい人間関係」とか
そうした「恵まれた環境」があるのだろう。
だけど、僕はそれを承知の上で、あえて問いたい。
「本当に、本当に、あなたは現状に満足できていますか?」
もっと収入がほしかったり、もっと良いお家に住みたかったり、もっとおいしものを食べったかったり、もっと旅行に行きたかったり、もっと友達と遊びたかったり、もっと異性と遊びたかったり、とにかく、もっと刺激がほしかったり……何かしらの満たされない思いを抱えてはいませんか? と。
僕は自分自身や周囲の人たちを見ていると、つくづく思う。
「人間ってのは、なかなか現状に満足できない生き物なんだなあ」
別に大したことがあった訳じゃないのに、
「はぁ」
と、なぜか“ため息”がもれてしまうなんて経験、きっとあなたにもあるだろう。
なんとなく満たされない思いから、
「あ~あ、なんか面白いことねえかなあ」
とつぶやいた経験、きっとあなたにもあるだろう。
それはあなたの内に、何かしらの満たされない思いがあるからに他ならない。
「知足」=「現状に心から満足できる」
これは、実はとてつもなく難しいことなのだ。
“知足”できる喜助
さて、そんな難しい「知足」を体現した人物が登場する。
それが「喜助」だ。
では、喜助のどのような態度が「知足」だといえるのか。
結論を言えば次の2つである。
1、これからの流罪生活に満足をしている。 2、与えられた金200文に満足をしている。
「これから流罪生活が待っているというのに、どうしてお前はそんなに平気そうなのだ?」
そんな庄兵衛の質問に、喜助はこう答える。
「なるほど島へ行くということは、他の人には悲しいことでございましょう。(中略)しかし、それは、世間で楽をしていた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまで私のいたしてまいったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます。」(本文より)
つまり、
「これまでに経験してきた苦しみを思えば、もはや それ以上の苦しみはどこにもない」
と、喜助は言っているわけだ。
喜助が満足しているのは、それだけが理由ではない。
喜助は次のように続ける。
「それから今度、島へおやりくださるにつきまして、二百文の鳥目をいただきました。それをここにもっております。(中略)私は今日まで、二百文というお足を、こうしてふところに入れてもっていたことはございませぬ」(本文より)
つまり、
「いままでの極貧生活を思えば、手元に金があるだけで幸せです」
と、喜助は言っているわけだ。
ちなみに、二百文は、今でいう1~2万円くらいと考えてもらえれば良い。
そんな生活の足しにもならないような金額で、喜助は心から満足しているのである。
- 最低限の居場所があること
- ささいでも手持ち金があること
これだけで満ち足りた思いになれる喜助の態度、それを「知足」と呼ぶわけだ。
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“知足”できない庄兵衛
「現金2万円やるから、へき地で生活しろ」
そういわれて。
「ありがとうございます! この上なくうれしいです!」
とは、普通ならない。
そうした普通の感覚を持つ人物、それが「庄兵衛」である。
この庄兵衛の登場によって、喜助の異色っぷりが、全面的に強調されることになる。
あらためて庄兵衛のスペックを確認すれば、
- 初老の下級役人
- 妻、子4人、老母と暮らす
- 倹約生活を強いられている
ということになる。
つまり、庄兵衛もまた、決して裕福とはいえない生活を送っているのだ。
下級役人ということで給料も少ない。
初老(40歳程度)ということで若くもない。
倹約生活ということで快適ではない。
仕事といえば、誰もが嫌がる「高瀬舟の護送」だし、稼いだ給料は生活費に消えていく……
そんな自分自身の生活を顧みた庄兵衛の脳裏に、ある思いがよぎる。
「果たして、俺と喜助と、いったい何が違うのだろう」
庄兵衛の胸中は次のように語られる。
我が身の上を顧みれば、彼(喜助)と我との間に、果たしてどれほどの差があるか。自分も上からもらう扶持米を、右から左へ人手に渡して暮らしているにすぎぬではないか。彼と我との相違は、いわばそろばんの桁がちがっているだけで、喜助のありがたがる二百文に相当する貯蓄だに、こっちはないのである。(本文より)※カッコ内は引用者補筆
つまり、
「貧しい生活を送っているのは、俺だって変わらない。それなのに、喜助は満足できて、俺は満足できない」
この違いとは一体……
こうして庄兵衛は、自分と喜助との間に「大いなる懸隔(へだたり)」を思わずにはいられなくなる。
庄兵衛から喜助へのリスペクト
庄兵衛は思った。
「満足できる喜助と、満足できない俺、ここに大きな隔たりがある」
そうした思いは、いつしか庄兵衛に、哲学的な思考を促していき、いつしか「人間の一生」にまで思いを馳せていく。
要するに、ここで庄兵衛は「なぜ人は満足できないのだろう」という問いにからめとられているわけだ。
庄兵衛はただ漠然と、人の一生というようなことを思ってみた。人は見に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一のときに備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、また、その蓄えがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行っても踏みとどまることができるものやら分からない。(本文より)
これはとても鋭い指摘だ。
人間の欲望は留まることを知らない。
旅行一つとってみても同様のことがいえる。
地元で満足できない人は隣県へ行くだろう。
それでも満足できない人は全国各地へ行くだろう
それでも満足できない人は、海外へ行くだろう。
それでも満足できない人は、宇宙へ行くだろう。
では、宇宙へ行った人間が果たして満足できるのかといえば、おそらく満足はできない。
きっと、
「なんか面白いことねえかなあ」
とこぼしたり、ため息をついたりすると思うのだ。
そう考えると、なんだか背筋が冷たくはならないだろうか。
これが人間の欲望の真実の姿なのである。
仏教では、求めても求めても満たされない生き方を「餓鬼道」と呼び、苦しみの1つと考えた。
常に飢えと渇きに苦しみ、食べても飲んでも、決して満たされることがない、苦しみの世界。
それを乗り越えることとは、すなわち「悟り」の境地である。
そうなのだ。
つまり「知足」とは、もはや悟りの境地とほぼ同義といっていい。
そして喜助は、その知足を体現しつつある。
そんな喜助の凄さと、庄兵衛のリスペクトは、次の場面に集約されている。
庄兵衛は、今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。このとき、庄兵衛は、空を仰いでいる喜助の頭から毫光が差すように思った。(本文より)
毫光とは、悟りを得た人間(=仏)から発せられる光のことである。
奈良の大仏のおでこにイボみたいな点があるが、毫光とはあのイボ(まぁ、実際あれは毛なのだけど)から発せられる光なのである。
つまり、喜助の頭からは、そんな感じの「悟りビーム」が照射されている。
……と庄兵衛には見えたのだった。
「喜助さん」
そう口にした庄兵衛には、間違いなく喜助への畏敬の念(要するにリスペクト)がある。
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作品テーマ②「安楽死」
百日咳と安楽死
高瀬舟のもう1つのテーマに、「安楽死」がある。
実は、森鴎外にとって「安楽死」は、忘れようにも忘れることのできないテーマだった。
それを伝えるエピソードが、森鴎外の長女「森茉莉」の「注射」というエッセイに描かれている。
(なお「注射」は以下の書に収録されている)。
――鴎外の長女「茉莉」は5歳のころ百日咳にかかった。
明治時代、百日咳で命を落とす者は多く、茉莉もまた危篤になってしまう。
目の前で、激しくせき込み苦しむ娘を前に、何もしてやれない鴎外。
そんな彼に、医者は、
「娘さんはあと数時間の命ですよ」
といった宣告をし、注射での安楽死を鴎外にすすめてくる。
「どうせ助からないのなら、いっそのこと楽にしてやりたい」
そんな思いから、鴎外は安楽死を受け入れようとするも、鴎外の義父がやってきて鴎外を叱りつけた。
「人間の寿命なんて分かるものではない。茉莉にまだ寿命があったらどうするんだ」
この義父の叱責により安楽死は行われず、三日後の夜、病状は回復して茉莉は一命を取りとめた――
以上が鴎外と安楽死のエピソードである。
今でこそ「安楽死」はさまざまに議論されるテーマであるが、明治時代においては一般的ではなく、その倫理的な難点から議論の的にさえならなかった。
そんな「安楽死」が「高瀬舟」において直球で描かれているわけだが、それは「安楽死」が鴎外にとって重大なテーマだったからに他ならない。
喜助が直面した極限状況
幼い頃に両親を亡くした喜助は、弟と2人暮らしをしていた。
生活は常に苦しく、手持ちの金が常になかったことは、先ほども触れた通りだ。
そんなさなか、弟が病に倒れる。
病が治らない絶望と、兄の負担であることの罪悪感。
「どうせ治らないのなら、早く死んで兄貴に楽をさせたい」
そう思い至った弟は、剃刀で自らの頸動脈を切って自殺を図る。
だけど、うまく死にきれない弟。
そこに現れた兄喜助は、事情を理解し、弟をなんとかして助けようとする。
「待っていてくれ、医者を呼んでくるから」
しかし、弟は兄を呼び止めて懇願する。
「医者が何になる、ああ苦しい、早く殺してくれ、頼む」
苦しみににじんだ弟の目には、次第に憎しみが宿っていく。
そんな眼差しにさらされ続けた喜助は ついに決意する。
「しかたがない、とどめをさしてやる」
喜助が、弟の喉に刺さった剃刀を抜いてやった。
折悪しく、それを見ていたのが、近所に住む老婆だった。
「あっ」と言って、駆け出していく老婆。
ぼんやりと立ち尽くす喜助の傍らで、弟はすでに息を引き取っていた。
……というのが、喜助の弟殺しのあらましである。
喜助が直面した状況は、まさしく「極限状況」だったと言ってよいが、それを描く鴎外の筆は圧巻である。
喜助が受けた衝撃、焦燥、緊張感、葛藤、そうしたものが、断末魔の弟の描写を通してありありと伝わってくるのだ。
そのリアリティが半端なくて、目を背けてしまいたくなった読者も多いと思う。
だからこそ、読者もこう思わずにはいられないのだ。
「喜助の行動は、ほんとうに罪と言っていいのだろうか」
この「極限状況」を鴎外が詳細に描いたのは、「長女と百日咳」という実体験があったからだといっていい。
苦しむ娘を前に、きっと鴎外も思ったはずなのだ。
「愛する人のために自分にできることがあるとすれば、それはいっそのこと楽にしてやることなんじゃないだろうか」と。
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喜助の行為は“同意殺人”
今でこそ、安楽死に関する議論が盛んになり、安楽死を法的に認める国も増えてきた。
では、日本で安楽死は認められているのかというと、答えは「認められている」ということになる。
ここで急いで付け加えなくてはならないが、日本で認められているのは「消極的安楽死」であって、「積極的安楽死」ではないということだ。
両者をまとめると次の通り。
積極的安楽死 ……患者の命を終わらすために「何かをすること」 消極的安楽死 ……患者の命を終わらすために「何もしないこと」
前者は、たとえば致死量のモルヒネを投与するなど、患者の死期を人為的に早める行為を指しているし、一方の後者は、たとえば、すべての延命行為を一切行わず、患者の死期を自然のなりゆきに委ねることを指している。
『高瀬舟』で描かれているのは、前者の「積極的安楽死」ということになるが、現代の日本で喜助と同じ事をしてしまえば、
「同意殺人罪」により有罪。
「6か月以上7年以下の懲役または禁錮」
ということになる。
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おわりに「鴎外の悲しみ」
翁草と高瀬舟の違い
ここまで、高瀬舟の2大テーマ「知足」と「安楽死」について解説をしてきた。
最後に、鴎外が「高瀬舟」を創作した意図について解説をし、記事を締めくくりたい。
そもそも、
「高瀬舟のテーマは知足と安楽死です」
と、多くの人が口にするのは、鴎外自身がそう明言しているからである。
それが書かれているのは、同じ時期に鴎外が発表した『高瀬舟縁起』だ。
そこでは、「高瀬舟」には元になった作品があり、それは『翁草』という江戸時代の随筆であるとされている。
では、『高瀬舟』と『翁草』には、具体的にどんな違いがあるのだろう。
大筋においてほぼ違いはない。
弟を殺して高瀬舟に乗せられる男性
なぜか嬉しそうにしている彼の様子
今までよりマシな生活を期待する彼の様子
“同意殺人”という弟殺しの背景
ほとんどすべてが『高瀬舟』でも採用されているストーリーだ。
ただし、唯一『高瀬舟』にないものがある。
それは、
「兄が弟殺しをしたのは、要するに、兄に分別心がなかったから」
という、みもふたもない解釈である。
其の所行もとも悪心なく、下愚の者の弁へなき仕業なる事、吟味の上にて、明白なりしまゝ死罪一等を宥められし物なり(『翁草』より)
これをザックリ訳すと、
「兄が弟を殺したのは別に悪気があったわけじゃない。ただ兄が無教養で分別心がなかったからだ。そのことがはっきりと分かるので、本来は死刑なのに、刑が軽くなったのだ」
ということになる。
これを、さらに身もふたもなく要約すると、
「この悲劇は、単に兄がアホだったから起こったのだ」
ということになり、『高瀬舟』を知っている僕らから見れば、「そんなバカな話あるかい!」と思わずにいられないまとめられ方なのである。
『高瀬舟』と次男「不律」
『翁草』にはこう書かれている。
「弟殺しという悲劇は、単に兄がアホだったから起こったのだ」
そんなバカな話あるかい!
森鴎外もそう思っただろう。
鴎外が『翁草』を読んだ時、間違いなく、あの「百日咳」の日の記憶がよみがえったはずだ。
この記事ではふれなかったが、実は、百日咳にかかったのは長女茉莉だけではなかった。
不律という次男も、百日咳にかかっていた。
しかも、この時まだ赤ん坊だった不律は、「助かる望みはない」ということで、安楽死させられているのである。
激しくせき込む幼い我が子、そこに打ち込まれる何本もの太い注射、そして横たわる亡き骸……
それらを鴎外は、一体どんな思いで見つめていたのだろう。
とうてい言葉にできない“悲しみ”や“割り切れなさ”があったのは間違いない。
だけど手に取った『翁草』にはこう書かれていた。
「兄が弟を安楽死させたのは、兄がアホだったからだ」
ふざけるな、安楽死ってのは、そんなにシンプルな問題じゃない。
そうした思いが原動力となって、鴎外は『高瀬舟』を書いたのだと僕は思う。
もっといえば、鴎外にとって『高瀬舟』を書くことは、自分自身のためであり、幼くして死んでいった不律のためであったのだと思う。
「知足」と「安楽死」
どちらも、とても興味深いテーマであり、『高瀬舟』は今後もそうしたテーマで論じられていくだろう。
だけど、作品の根本にあるもの、つまり、
「森鴎外の“悲しみ”」
このことも決して忘れてはいけないと僕は思う。
『高瀬舟』の解説記事は以上です。
最後まで読んでくださり ありがとうございました。
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