はじめに「日本人の世界観を知れる良書」
「日本人の自然」は、論理国語の教材として採用された文章であり、精神病理学者の木村敏の著書『自分ということ』の一節である。
この文章は、行き過ぎた“近代化”に対する批判であり、ひいては日本人が失ってしまった精神世界を取り戻すきっかけともなる文章だといえる。。
ただ、これまで「近代」とか「自然」とか「日本人の世界観」なんかに思いを致したことがない人にとっては、やや読みにくく、理解しにくい文章かもしれない。
そこで、この記事では『日本人の自然』について、わかりやすく丁寧に解説をしようと思う。
主なトピックは以下の通り。
- 現代日本人にとっての「自然」
- 日本人にとっての元来の「自然」
- 西洋と日本の自然観を対比
- 西洋と日本の庭園の対比
- 客観的自然と主観的自然
お時間のあるかたは、ぜひ最後までお付き合いください。
200字要約
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現代日本人にとっての「自然」
まずは、本文冒頭の一文を引用しよう。
今日、私たちはほとんどの場合、「自然」という言葉を英語のnatureと同じ意味に解してる。
ということで、「現代日本人にとっての“自然”とは」という表題の結論がさっそく出た。
現代日本人にとっての「自然」= 英語のnatureの訳語
である。
ただ、やはりこれだけではチンプンカンプンなので、もう少し読み進めてみたい。
本文はこの一文に続いて、西洋語の「nature」の具体例が羅列される。
- 山、川、野原
- 動物、鳥、虫、魚
- 変化していく気象
- 太陽、月、星
- 分子、原子、素粒子
といった具合に、マクロな世界からミクロな世界まで網羅的に記述されているが、これらすべてが「名詞」であることも合わせて確認しておきたい。
さて、以上の具体例を踏まえて、ここで強調しておきたい点が一つある。
それは、
「自然」の中に、人間だけが含まれていないこと
である。
本文では「自然」を次のように定義している。
それ(自然)は、私たち人間を外部から取り囲む環境の全部から、一切の人為的なものを引き算した余りのことである。
つまり、英語における「自然」というのは、あくまでも「人間を外部から取り囲む環境」であり、そこにはどんな「人為的なもの」も含まれていない、というわけだ。
以上をまとめると、こんな感じ。
【 環境現代日本人にとっての「自然」】
1、英語のnatureの訳語
2、森、川、動物、虫のような「名詞」
3、人間を取り囲み、人間の外にある
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日本人にとっての元来の「自然」
なるほど、現代日本人にとっての「自然」が、英語のnatureの訳語であることは分かった。
だけど、筆者が本文で最も伝えたいこと、それは、
日本人にとって元来の「自然」は、決してnatureの訳語ではなかった
ということである。
筆者は、その主張を裏付けるため、古代から中世にかけて、日本で「自然」がどのように使われてきたかを具体的に紹介している。
それを簡単にまとめると、次の通り。
〇古代中国における自然の意味(老子の例)
→おのずから、ひとりでに
〇奈良時代における自然の意味(万葉集の例) →おのずから、たまたま、ひとりでに
〇鎌倉時代における自然の意味(親鸞の例) →人為の加わらないまま、おのずから
〇中世日本における自然の意味(見聞愚案記の例) →万一、もしも、不慮のこと
こうして並べてみると、まずはっきりとわかることが一つある。
それは、
中国語や日本語の「自然」は、“名詞”ではなかったこと
である。
先ほど僕たちが確認したのは、
西洋のnatureの訳語である「自然」 = 名詞
ということだった。
ところが、ここでははっきりと、
元来の日本語における「自然」 ≠名詞
ということが書かれているわけだ。
ここで改めて、日本における「自然」の意味を羅列してみる。
- おのずから
- ひとりでに
- 自然と
- 万一
- もしも
これらの品詞は「名詞」ではなく「副詞」である。
「副詞」というのは、主に物事の「情態」や「程度」を表す語だ。
たとえば、「きらきら」とか「ぴかぴか」といった“オノマトペ”の多くは「副詞」に当たる語だが、これらはすべて「情態」や「程度」といった、対象の「あり方」を表している。
そして、日本語における「自然」というのが「副詞」であるとすれば、それはつまり「あり方」を表す言葉だったのである。
では、どんな「あり方」だったのか。
それは「おのづから」(=人為が加わらない様)というあり方だった。
さて、これは僕たちにとって驚きの事実である。
というのも、しつこいようだが、これは西洋における「名詞」的な使い方とは全く異なっているからだ。
そして、「自然=森や山や川や動物」と考えている僕たちの実感とも大きく異なっているからだ。
このことは、僕たち現代日本人が、日本語における元来の「自然」の用法を失った、あるいは、失いつつあるということを示している。
そう、ここ、大事なのは、まさにここなのだ。
西洋から日本にnatureという概念がやってきたのは、たかだか100年前の「明治時代」のことだ。
だけど、その「たかだか100年」の間に、僕たち日本人は、ご先祖さまから脈々と受け継がれてきた「元来の自然観」を失い、すっかり「西洋化」してしまったのである。
筆者は、そのことにある種の危機感を感じている。
筆者は本文を通じて、
「急速な近代化の中で、日本人は古くから受け継いできた自然観を失ってしまったんじゃないか?」
といったことを、僕たち読者に訴えかけているのだ。
さて、以上を踏まえて、ここまでの内容を一旦まとめておこう。
【日本人にとっての元来の「自然」】
1、「おのずから」(人為が加わらない)という意味の副詞。
2、「万一、もしも」(人力で左右できない)という意味の副詞。
3、名詞的な西洋の「自然」とは、本質的に異なる意味を持つ。
4、近代化によって、現代の日本人が失いつつある概念。
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西洋と日本の自然観を対比
さてさて、ここまで「現代日本人にとっての自然」と「日本人にとっての元来の自然」の2つについて確認をしてきた。
改めてまとめれば、
「現代日本人にとっての自然」
= 西洋語natureの訳語で、名詞的用法。
「日本人にとっての元来の自然」
=「おのずから」というあり方を示す、副詞的用法。
ということになる。
筆者はここから進んで「西洋と日本の自然観の違い」について、それぞれを比べながら論じていく。
それらをまとめると、およそ次の通り。
【西洋語の自然観】
・客体的で対象的なもの
・主体的自己の外にあるもの
・合法則性・規則性を持つもの
【日本語の自然観】
・対象世界ではない
・主観的情態性(心の在り方)
=不安、あはれ、無常感
と、結論をいえば、こういうことになるのだが、これまた何が何やらチンプンカンプンである。
なので、それぞれ、もう少しわかりやすく解説をしてみたい。
まず、【西洋語の自然観】についてであるが、これは超シンプルに言えば、次の2つになる。
- 人間の外にある物質的なものであり、客観的に認識することができる。
- 規則や法則を持っているため、人間によってコントロールが可能である。
1番は「客体的」や「対象的」、「自己の外」というキーワードをわかりやすく説明したものであり、2番は「合法則性」や「規則性」というキーワードをわかりやすく説明したものだ。
基本的には、これが「西洋の自然観」であり、もっといえば「近代」以降、日本が採用してきた自然観でもある。
では、次に【日本語の自然観】についてであるが、これは超シンプルにいえば、次の2つになる。
- 人間の外部にあるのではなく、主観的な心のあり方を表している。
- その心のあり方は、具体的に「不安」、「あはれ」、「無常感」と言い換えられる。
こう説明してみると、なんとなく、両者の違いが見えてきたのではないだろうか。
ただし、きっと多くの人が、
「不安という感情は、まぁ分かるとして……あはれ? 無常? はて一体?」
と感じていると思うので、ここは詳しく説明をしておきたい。
日本人にとって「自然」とは「おのずから」、つまり「人為の及ばないあり方」を示していたことはすでに確認をしてきた通りだ。
これを分かりやすくイメージするために「自然災害」を考えてもらえればよいと思う。
人間の予測や制御を超え、突然やってきて、人間の生活や命を奪ってしまうもの――
それが「自然災害」である。
たとえ、それまでの生活がどんなに満たされても、どんなに幸せであっても、災害はそれらを一瞬にして奪い去り、人間に言いようもない悲しみと虚しさを与える。
そして、そんな経験をした者は、きっとこう思う。
「ああ、人間という存在はなんて、儚いものなのか」
そう、これ。
まさに、この感覚こそが「無常感」なのである。
すべての物事は移ろいゆく運命にあり、一定のところに留まることはできない。
こうしたこの世界の決まりといおうか、ルールといおうか。
とにかく、人間の力の及ばない「この世界の原理」について、日本人は自覚的だった。
これはある種の諦め、あるいは、悟りの境地である。
こう聞くと「なんだか日本人ってネガディブだなー」とか、「辛気臭えなー」とか感じるかもしれないが、そうしたマイナス面ばかりではない。
つまり、日本人は「無常」を感じることができたからこそ、この世界を「あはれ」に感じていたといえるのである。
全ては移ろいゆくものだ。
ずっとその場にとどまり続けるものは何もない。
明日はやがて今日となり、そして昨日となる。
過ぎた時間は決して元にはもどらない。
そして人生は一度きりであり、人生には必ず終わりがある。
だけど……いやだからこそ、人生というのは美しいのであり、人間存在というのは尊いのである。
どうだろう。
こうして考えてみると、「無常感」と「あはれ」というのは、ちょうどコインの裏表のように、表裏一体の関係にあることが分かると思う。
無常感に根差した美意識、それが日本人独特の「あはれ」という情感なのである。
「あはれ」を辞書で調べてみると「しみじみとした情感」とある。
これは要するに「儚いこの世界を愛でる思い」のことだ。
そして、「無常感」や「あはれ」の根っこにあるもの、それが「おのずから」という自然の在り方なのである。
改めて確認をすれば、「おのずから」とは「人為の及ばない様子」のことである。
つまり、日本人にとって世界とは、人間の意図や計らいが及ばない世界だったのだ。
「自然」とは、そうした日本人の世界認識を表していたといえる。
さあ、ここまで読めば、本文の次のまとめも、すんなりと理解できると思う。
西洋の自然が主として人間の心に安らぎを与え、緊張を解除するようにはたらくものだとするならば、日本の自然は自己の一種の緊張感において成立していると言ってもよいだろう。
つまり、こういうことになる。
【西洋人にとっての自然】
→人間の心に安らぎを与える。
(合法則性、規則性を持つため)
【日本人にとっての自然】
→自己の不安や緊張感として感じられる。
(不測、偶発事であるため)
コントロールが可能な「西洋的な自然」は人間に安心を与えてくれる。
だけど一方で、コントロールが及ばない「日本的な自然」は不安や緊張感として経験される、というわけ。
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西洋と日本の庭園の対比
「人間に安心を与える自然」と「人間の緊張感において成立する自然」という対比がよく表れている例、それが「庭園」である。
ここでも「西洋式」庭園と、「日本式」庭園が明確に対比されて論じられている。
それをまとめると、次の通り。
【西洋の庭園】
・フランス式…幾何学的な装飾の趣が強い(人工的)
・イギリス式…自然の風景の再現、コピー(写実的)
※すべての鑑賞者を対象としている
【日本の庭園】
・天地散水を象徴的に配置(暗示的)
・自然の真意を表現(表意的)
※鑑賞力のある一部の人を対象としている
こうして両者の違いを見比べても、いまいちピンとこない人のために、超シンプルに違いを伝えるなら、
西洋の庭園…誰にとっても分かりやすい
日本の庭園…多くの人にとって分かりにくい
ということになる。
西洋の庭園は分かりやすい。
なぜなら、フランスの庭園は人口に装飾された華やかなものだし、イギリスの庭園は自然の風景をまるっとコピーしたものだからだ。
フランス庭園であれば
「ほら、豪華でインパクトがあるでしょ?」
ということになるし、イギリス庭園であれば
「ほら、ここに自然の風景を100%再現しました!」
ということになる。
だから、これらを見たすべての人が
「わー、すごい豪華な庭だねー」とか、
「わー、上手に自然を再現しているね!」とか、
一様にこんな感想を持つというわけだ。
だから、西洋の庭園は「不特定多数の人間」を鑑賞者として想定している。
一方の日本庭園はというと、西洋庭園と違い、非常に分かりにくい。
なぜなら、木々や草花、岩、池、滝などには、それぞれに象徴的意味が込められているからだ。
たとえば、滝で「自然の輪廻」なんかを表現していたり、岩で「悠久な時間」なんかを表現していたりする。
「ほら、あの木はね人間の人生を、花は人間の美意識を、池はこの世の静寂を表しているんだよー」
なんて作者から解説されたとしても、
「いや、んなこと分かるかい!」
と多くの人がツッコむことになるだろう。
こうした状況は、
「滝は滝! 岩は岩! 全部が自然のコピー!」
というイギリス式庭園と大きく違っているし、
「ほら、人間の手をつくして、こんなに豪華な庭を造ってみました!」
というフランス式庭園とも大きく違っている。
だからこそ、日本庭園は、鑑賞者を厳選することになる。
日本庭園が一部の限られた人間のためのものというのは、そういうことだ。
自然の真意(哲学的意味、宗教的意味といってもいい)を鋭敏にキャッチしてくれる、感受性の強い数少ない人間を、鑑賞者と想定しているのである。
ということで、両者の違いをあらためて整理すると、
【西洋式庭園】
…人為的、写実的なので誰にとっても一様。
…すべての人間が鑑賞者として想定されている。
【日本式庭園】
…象徴的、暗示的なので個人の感受性が必要。
…一部の人間だけが鑑賞者として想定されている。
ということになる。
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まとめ「客観的自然と主観的自然」
以上、「西洋の自然」と「日本の自然」の違いについて解説をしてきた。
この「日本人の『自然』」という評論文は、あくまで「現代日本人が失いつつある、“日本古来の自然”」にスポット宛てた文章だ。
だけど「日本古来の自然」を理解するためには、「西洋の自然」との対比が必要不可欠となる。
だから、両者を対比する形で論が展開されていくわけだ。
では、最後にまとめとして、両者の特徴を整理しておこう。
【西洋の自然】
…人間の外部にある客観的な実在。
…誰にとっても一様に認識される対象物。
…法則や規則を持ち、人間に安らぎを与えてくれる。
【日本の自然】
…一人ひとりの心の中にある主観的情態。
…誰にとっても一様な対象世界ではない。
…人為の及ばない「おのづから」という事態を指す。
…個人の「不安」や「緊張感」という情態として成り立つ。
以上を踏まえて、本文のアウトラインを超シンプルにいってしまえば、
西洋の自然は客観的で人間の外にある!
日本の自然は主観的に人間の内にある!
ということになるだろう。
こんなザックリとした理解をもって読めば、本文の細部もきっと理解できるのではないかと思う。
そして、筆者は僕たち読者にこう訴えかけている。
「日本古来の自然が失われつつあるが、本当にこのままでいいのか」
そして、急速な近代化に対する危機感を述べている。
「西洋をお手本にして、科学だ、効率だ、合理性だっていっているけど、そうした価値観ばかりを採用していくことで失ってしまうものがあるんじゃないの?」と。
評論文で語られる内容というのは、決して僕たちと無縁なものではなく、こんなふうに僕たちの世界観や人生観と地続きのものなのである。
以上で「日本人の『自然』」の解説を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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