鬼滅の刃を見たきっかけ

ぼくが鬼滅の刃を見るようになった経緯など、大抵の人にとって完全にどうでもいい話だと思うのだが、ここは大事なところなので、ぜひ我慢してお付き合い願いたい。
ぼくには5歳になった娘がいる。
これは去年のはなし。彼女が4歳のころのことだ。
彼女とドライブ中、道路の真ん中に、車にはねられた猫の死体がころがっていた。
ぼくは思わず、「うぎゃ!」と声を発し、とっさにハンドルを切って猫をよけた。
その異変に彼女は気づいたのだろう、しばらくしてから
「おとーさん、どーしたの?」と尋ねてきたのだ。
「ん? 猫ちゃんがね、かわいそうだったんだよ」
そのときのぼくは、なぜか「死」という言葉を使いたくなくて、そう有耶無耶に説明をしたのだった。
「どーして? なにがかわいそーなの?」
しかし、彼女はしつこく食い下がってくる。仕方がないので、
「猫ちゃんがね、道路で死んでたんだ。かわいそうだね。あんなにかわいい猫ちゃんが……」
と、まるで彼女の同情を誘うように言ったのは、どうせ、せっかく、「死」を語らなければならないのなら、腹をくくって彼女と「死」について、語ってみたいと思ったからだった。
案の定、バックミラー越しの彼女は、ムムムム……といった顔で何やら考えているようだった。
父としては「しめしめ」である。
ところが、しばらくして彼女は驚愕の一言を、静かな表情で言い放った。
「でもさぁ……、悪い人は、死んだほうがいいよね」
まさにビックリ仰天、驚天動地、霹靂一閃、ぼくのこころは一瞬にして乱れてしまった。
「な、な、なんで? そんなことないでしょ? っていうか、いま悪い人は、か、か、関係ないじゃん」
ぼくは、あわててそうフォローした。
「えー、でもさー、悪い人には死んでほしいよー」
そして、この攻防はしばらく続いたのだった。
だめだ。もうお手上げだ。
そう思ったぼくは、この攻防からひっそりとフェイドアウトするしかなかった。
結局のところ、彼女を説得することができなかったのである。
それにしても、「悪い人は死んだほうがいい」だなんて。
そんなこと、ぼくは一度だって娘の前で口にしたことはない。
いったい、どこで覚えてきたのだろう。
こんな価値観を、年端もいかない娘に植え付けた、世間の罪を思わずにいられなかった。
そして、ぼくは考えた。
「悪い人にだって、その人の人生というバックグラウンドがある。そこに目を向けずして、一方的にその人を裁くのは傲慢だ」
そのことを、どうやって娘に教えようか。
そこで、ふいに思いついた。
それが、鬼滅の刃である。
実は、そのころのぼくは鬼滅の刃について、ほとんどしらなかった。
ただ、メディアから得ていた唯一の情報と言えば、あのアニメは「鬼にも、鬼になった、鬼なりの背景がある」という、鬼の過去にスポットを当てた話らしいというものだった。
アニメだって、ひとつのきっかけだ……
そう思って、とりあえず家族みんなで見始めた、鬼滅の刃。
これが、まんまとはまってしまい、結局ぼくたちは「映画 無限列車編」を家族累計で6回見るまでの鬼滅のファンになったのだった。
遊郭編が楽しみでならない。
那田蜘蛛山と「業」

さて、主にとりあげたいのは、仏教が説く「業」である。
「業」とは、かみ砕いて言えば「状況」とか「条件」のことである。
さて、鬼滅の刃に関する改めての紹介は、一切不要だろう。
ちなみに、ぼくは「すべてアニメで見たい派」なので、はやく先を知りたいと思う自分自身をなんとか抑え、漫画には手を出さないようにしている。
だから、世間で絶大な人気をほこる「上弦の参・猗窩座(あかざ)」に関する話を一切しらない。(もっとも、これこそ仏教が説く「業」を表現した一番のエピソードなのでは、という直感はある)
よって、ここでの話は、アニメで放送された範囲にとどまらざるを得ない。
ぼくが深く考えさせられたのは、これもまた多くのファンを獲得している鬼、下弦の伍・累の話、
すなわち「那田蜘蛛山(なたぐもやま)編」である。
ご存知のように、十二鬼月の1人である累の戦闘能力は高く、彼は「家族」という名の下に、複数の鬼たちで群れている。
だが、「家族」という認識は累だけのものであって、その実態は、累による一方的な支配体制である。
ここで累の印象的な言葉を挙げてみる。
「家族……父には父の役割があり、母には母の役割がある。親は子を守り、兄や姉は、下の兄弟を守る、何があっても、命をかけて」
「僕はね、自分の役割を理解してない奴は、生きている必要が無いと思っている。お前はどうだ? お前の役割は何だ?」
とにかく、累は「家族の役割」というものに捕らわれている。
実際に、累が理想とする役割、家族として理想的な振る舞いができない鬼を、累は許さない。
累を怒らせた「家族」は、その身をズタズタに切り裂かれるか、最悪の場合は朝日にあぶられてジワジワと殺されるかしてしまう。
累は言う。
「何に怒ったのか分からないのが悪いんだよ」
そう言われていたぶられる鬼は、
「ごめんなさいごめんなさい。次はちゃんとやるから」
と、ひたすらわび続けるほかない。
ここまで書けば、ぼくが何を言いたいか分かると思う。
この構図、近年留まることを知らない深刻な、児童虐待問題のそれと全く同じなのだ。
親の機嫌をうかがい、どうすれば親の意にかなうのか、どうすれば親を怒らせないのか、そうして、さんざん悩んで悩んで選んだ行動が、決定的に親を怒らせてしまった場合、彼らが責めるのは自分自身だ。
「悪いのは理不尽な親」ではなく、「悪いのは良い子になれない自分」なのだと考えてしまう。
これほど強烈な支配はない。
ちなみに累は、家族の「絆」について、こんな風に言っている。
「僕の方が強いんだ、恐怖の絆だよ。逆らうとどうなるかちゃんと教える」
彼にとって絆とは、恐怖による支配関係なのだ。
実際、アニメの中で、まるで操り人形のように、糸によって人間を操り支配する鬼が登場するのだが、これは決して偶然ではない。
ぼくは、あの場面から、深刻な家族問題について考えさせられた。
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母鬼が抱える「業」

仏教という観点にたってこの話しを見たときに、印象的なキャラがいる。
「母役」の鬼である。
先ほど紹介した、糸で人間を操る鬼とは、彼女のことなのだが、彼女は累の意に沿うように、次々と人を殺し続ける。
もっとも鬼はそもそも人を殺して、それを食べるわけで、彼女の行為に対して、100%累に責任があるわけではない。
だけど、彼女が人を殺す動機の一つとして累による支配があるのは間違いない。
ぼくの印象に残ったのは、彼女の最期のシーンだ。
とりわけここで注目したいのは、彼女に刃を向ける炭治郎の慈悲心だ。
- 伊之助に投げられて飛んできた炭治郎。
- 炭治郎は、地上において糸を操る母鬼の姿を見つける。
- そのまま、全集中からの水の呼吸、鬼の首への一刀を構える。
と、その時である。
母鬼は、
「ああ、これで死ねる。これで累の支配から楽になれる」
と、目をつぶり、炭治郎に自らの首を差し出すのである。
それを見た炭治郎は、準備していた壱の型から、すかさず型を切り替える。
この型こそ、
「干天の慈雨」
といって、苦しみを全く与えずに相手を葬る型なのだ。
ぼくはここに、仏教、とりわけ浄土真宗の救いの境地に通じるものがあると感じている。
もちろん、ぼくはここで、人を殺し続ける彼女の罪を擁護するつもりはない。
ただ、もし仮に、ぼくが母鬼と同じ立場だったして、
「累の支配を振り切って、断固として人を殺すことを拒絶できたか」
と、問われると、自信をもって、答えることができないのだ。
浄土真宗の基本的な人間理解として、
「業によっては、どんなことでもしてしまうのが人間だ」
というのがある。
その視点から母鬼を注意深く見てみれば、彼女の「殺す暴力」の背景に、累による「殺させる暴力」があるわけだ。
つまり、彼女は加害者でもあると同時に、被害者でもある。
こういう存在にとって救いとはなんだろう。
この議論に関しては、様々な意見があるだろう。
いかなる理由があっても、罪を犯したものは罰を受けねばならない。
これも真っ当な意見の一つだ。
ただ一方で、次のような視点も必要ではないだろうか。
それは「罪を犯してしまう人間の悲しみ」である。
浄土真宗では、罪深い人々が救われていく、そういう世界が説かれている。
「業」によって、苦しみや悲しみを抱えたものへ慈しみを向ける世界観が、浄土真宗の根幹だと言ってもいい。
とすれば、炭治郎の「干天の慈雨」は、仏による救済と同じだといえないだろうか。
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炭治郎の「慈悲心」

実は、炭治郎の「慈悲」は、「干天の慈雨」だけではない。
なんなら、鬼滅の刃において、炭治郎は「慈悲」の体現者として描かれているように思われる。
そこで、紹介したいのが、炭治郎の感動的な言葉だ。
累の首を切ったのは、最終的には、水柱である富岡義勇であった。
富岡は累を切ったあと、その足で累を踏みにじる。
そして、くだんの言葉というのは、その時の富岡との掛け合いから生まれた、以下のものだ。
富岡「人を喰った鬼に情けをかけるな。子供の姿をしていても関係ない。何十年何百年生きている醜い化け物だ。」
炭治郎「殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害者を出さないため…勿論俺は容赦無く鬼の頸に刃を振るいます……
だけど鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない。鬼は人間だったんだから。足をどけてください。醜い化け物なんかじゃない。鬼は虚しい生き物だ。悲しい生き物だ。」
ぼくは、この言葉に心から涙した。
炭治郎の魅力は、この母性的な愛情と優しさにあると考えている。
(そんなぼくは、筋金入りの善逸推しである)
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累が抱える「業」

次に取り上げるのは、十二鬼月、下弦の伍・累の悲しみだ。
さて、浄土真宗の基本的な人間理解として、
「人間は、業(条件)によって、どんなことでもしてしまう」
という考えがあることは、すでに紹介した。
累の「母役」の鬼は、大勢の人間達を「殺させられていた」わけで、そういった意味で、彼女は「業」の深い存在であると言えよう。
「なるほど、すべての元凶は累にあるということか」といった即断、
そんなこと、「那田蜘蛛編」を最後まで見たことがあれば、絶対にしないはずだ。
なぜなら、類自身にも、鬼になった過去があり、彼もまた家族にまつわる深刻な問題をかかえてきたことが、物語の終盤において、まさしく累自身によって、印象的に語られるからである。
ここで改めて振り返りたいことがある。
累が鬼になった経緯、と、その後の彼と家族との間に起こったこと、以上2つの点だ。
- 累は両親を含めた3人家族。
- 生まれつき身体が弱く、生活もままならない。
- ある日、無惨が現れる。
- その血を分けてもらい、鬼と化す。
ここまでが確認事項の1つ目。
累はこうして憧れていた強い肉体を手に入れて喜んだ。しかし、事は当然、うまくいくはずもない。
- 喜んだのは累自身だけ。
- 両親は累の悲惨な運命を嘆き悲しむばかり。
我が子が鬼と化したのだ、両親の悲しみは察するにあまりある。
そして、ある日、悲劇が起きる。
- 累が人を喰っている姿を両親が目撃。
- 泣き崩れる母。
- 就寝中の累を殺そうとする父。
- 目を覚ました累は激昂。
- そのまま両親を自らの手であやめる。
ここまでが確認事項の2つ目。
つまり、彼は、実の父から殺されかけた挙句に、実の両親を殺害した。そんな悲惨な過去を持っている。
彼が「家族」や「絆」にあれほど執着していたのは、彼が「家族」から裏切られ、「絆」を失った(と感じてしまった)、そんな悲しい過去が原因だったのだ。
「俺たちの絆は偽物だった」
富岡から首を切られた死の瞬間、彼を自らの家族をそのように総括している。
では彼は「本物の絆」がどんなものか分かっているのかといえば、現時点では全く分かっていない。
その結果、恐怖や暴力によって、無理やりに家族を繋ぎ止める、全く不健全で間違った「絆」を作っていってしまった、というわけである。

ここで、少しだけ脱線する。
以上のように確認してきた累の過去と共通したモチーフが、西洋・東洋のどちらにも、伝統的なものとしてある。
まず、西洋の方。
これは比較的に有名。
ギリシア神話の一節「エディプス王の悲劇」である。
東洋の方は、あまり知られていないかもしれない。
観無量寿経というお経に描かれる「王舎城の悲劇」である。
くわしい内容は割愛するが、ここで確認したいのは、両者の主題の共通点である。
それは、
親が子を殺しそこね、子はその「業」によって、両親に危害を加える
というものだ。
どちらの主人公も悲しい運命に翻弄され、父や母を殺そうとする。
「悲劇」とよばれるゆえんである。
なお、この二つの物語はそれぞれ、
「エディプスコンプレックス)」
「アジャセ(王舎城の主人公の名)コンプレックス」
といった、親に対するゆがんだ心理を表す心理学用語を生み出している。
ぼくは、これらは愛着障害の一例であると理解しているのだが、古来から、世界中で親子の問題は深刻だったのだろう。
累もまた、両親、ひいては家族に対するゆがんだ心理を持っている。
改めていうまでもないが、それは「父に殺されかけた」悲劇(業)に由来しているのである。
・
「業」は連鎖する

さて、こうしてみると、「暴力」は新たな「暴力」を生む、といえそうだ。
実際に、「累」や「エディプス」や「アジャセ」の暴力は、両親からの暴力に由来しているからだ。
そうなると、さらなる視点が生まれてくる。
親の暴力は、いったい何に由来しているのだろう。
当然、これには様々な要因があるため、慎重にならなければならない。
だが、親自身もまた、かつて彼らが子供だった頃に暴力を受けていた、ということは考えられないだろうか。
近年、児童虐待が後を絶たない。
その報道に触れるたびに、暗たんとした気持ちになる。
子どもたちの苦しみを想像するだけで、心が張り裂けそうになってしまう。
最近だと、もっとも有名なあの虐待事件。
あえて、名前は伏せるが、あの父親による虐待行為は、ぼくの理解をはるかに超えている。
赤の他人のぼくでさえ、彼に対して強烈に怒りと憎しみを覚えるほどだ。
ただ、一部報道によれば、あの父親もまた、幼いころ、彼の親から、頭蓋骨が陥没するほどの虐待を受けていたというのだ。
そして、彼はその裁判で、「あれが子育てだ」と、本気で証言したという。
これが、真実なのかは、彼のみぞ知ることであるし、仮にそれが真実であったとしても、ぼくは絶対にあの父親を理解することはできない。
ただ、やっぱり、そこには「業」による人間の悲しみが見え隠れするような、なんともいえないシコリが残ってしまうのだ。
ぼくは、子育ても一つの「業」だと考えている。
たとえば、人が親になったとき、どんなに「自分はあの親のようにはならない」と意識したとしても、やはり無意識で、同じことをしてしまう、なんてことがある。
自分がされてきた方法で、知らず知らずのうちに、我が子と関わってしまうわけだ。
それなら、ぼくにも思い当たる節はいくつかある。
そう考えたとき、(程度は雲泥の違いはあるものの) ぼくとあの父親とは、全く違うと言い切ることができるのだろうか。
ここで、あらためて親鸞の言葉を紹介しよう。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまひもすべし。
親鸞『歎異抄』より
人間は「業」によって、どんなに残酷なことでも、簡単にしてしまう存在なのだと、親鸞は説いている。
そういった視点であたりを見渡せば、様々な悲しみがあって、その背景にもまた悲しみがある。
世界はいったいどれだけの悲しみであふれているのだろう。
そして、現在の悲しみの先にまた、新たな悲しみが次々と生まれていくのかもしれない。
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累にとっての「救い」

さて、再び鬼滅の刃の話に戻ろう。
くだんの「那田蜘蛛山編」なのだが、最後は感動のフィナーレを迎える。
累が死後の世界で、両親と再会し、彼らとの真の「絆」を取り戻すのだ。
もちろん、累が行くところは「地獄」だとされている。
だけど、それと裏腹に、まるで累の心が浄化されていくように、彼は醜い鬼の姿から、あどけない少年の姿へと変わっていく。
「全部、ぼくが悪かったよ、ごめんなさい」
累の号泣、家族の抱擁、素敵なBGM、大円団で幕。めでたしめでたしの趣である。
うむ。なるほど。
これは、あくまでも少年誌に掲載された漫画であり、アニメである。
野暮なことは言いたくない。
ので、小さく控えめに書いておく。
とはいえ、やっぱりぼくは「累」によって生み出された無数の被害者に目が向いてしまう。現実世界で、虐待した父を許せないように、やはり、彼が地獄に落ちようと、大円団、めでたしめでたし、はちょっと都合がいいのではないか。少なくても、ぼくは最後の最後で、なんだか鼻白んでしまった。
・
「悪」の根源はいったい何か

最後に、見出しの件について、簡単な問題提起をして、この記事をしめくくりたい。
これまで考えてきた通り、「暴力」は新たな「暴力」を生み、「悲しみ」は新たな「悲しみ」を生む。
そう考えると、暴力の根源、悲しみの根源とは、いったいどこまでさかのぼれるのだろうか。
【 子の暴力 ← 親の暴力 ← 親の暴力 ← 親の暴力 ← …… ← X 】
と、まあ、ことはここまで単純ではないにしても、
このように退行していったとき、はたして暴力の根源、暴力の第一原理「X」を突き止めることはできるものなのだろうか。
そしてひるがえって、鬼滅の刃に目を向けたとき、この諸悪の根源「X」とはいったい何なのだろうか。
ぼくは、鬼滅の刃を「すべてアニメで見たい派」である。よって、この物語の結末を全く知らない。
だから、今のところ、諸悪の根源Xは、鬼舞辻無惨なのだろうと高をくくっている。
であれば、無惨をやっつけて、めでたしめでたし、でいいのかもしれないが、ここはやはり天才吾峠先生のことである。
きっと、一筋縄ではいかない結末を準備してくれていると、ぼくは勝手に期待している。
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